福井 小浜 神明神社 資料

熊野山


神明社の在る場所が、熊野山。

 

『大日本地名辞書』
補【熊野山】遠敷郡○郡県志、後瀬の連峰にして而して西南に在り、山腹に熊野十二権現の社あり、其中間の役の小角の像を安ず、今の山伏なるもの小角の末徒なり、故に国中の山伏之を尊崇す、凡そ国中の山伏五六十人あり、○貞享四年秋三方郡早瀬浦の三光院、洛東聖護院門主に訟へ、請ふて国中一方の山伏の長となる、聖護院に属す、また小浜行蔵院、竹原泉蔵院、野代村西蔵院、多良庄村福寿院等は三光院に与みせず、別に聖護院に属し而して国中一方の長となる、皆真言の山伏なり。



『定本柳田国男集第七巻』「東北文学の研究」「清悦物語まで」
八百比丘尼の事
若狭の方面には「沖のすさび」より少し後に、貝原益軒の西北紀行があって、忠實に土地の所傳を録して居る。小濱の熊野山の神明社に、其頃は既に比丘尼の木像と稱するものがあり、しかもその由来記はまた別箇の趣を具へて居た。昔此地方に六人の長者、折々集まって寶競べの會を催して居たが、其一人人魚を調味して出したのを、五人の客疑って食はなかった。それから家に持歸って少女が食ったといふ段は、すべて他の例と一つである。


『今富村誌』
熊野山 熊野山は後瀬山の西に連り山麓神明神社あり(昔は山の半腹にあり維新後茲に移す)健保年間の創建に係り淺野、酒井の國主崇敬淺からざりしと、山麓一帶の地は往古海岸の地にして後瀬の浦と稻したる處なり。'八百比丘尼洞、船止巖、帆着谷等の以て富時を語るもの多し


神明神社

今の国道27号から谷田部峠へ向かう旧道を入った所の山麓に西向きに鎮座、背後の山を熊野山(神明山・白椿山)という。祭神は天照皇大神豊受姫命二神。中世・近世には太神宮・青井明神などともよばれ、また「女伊勢神宮」と称したという(若州管内社寺由緒記)。「神明宮草創記」(社蔵)は豊受大神が丹後の与佐宮から伊勢山田に向かう途次舟で当地に立寄り、翌年大倭姫が当社を創始したという草創伝承を記す。「若州管内社寺由緒記」は建保年中(1213-19)の創建と伝える。今は忘れられたような社で荒れているが、「親元日記」の文明13年(1481)8月3日条に「若州小浜神明神主赤坂豊前守氏久貴殿へ御祓一合三百疋進之、杉江方ニ渡」とみえ、大永2年(1522)には当社禰宜赤坂氏親が当社境内地を西福寺に道場建立地として寄進している。享禄2年(1529)7月19日付棟札に、この時若狭守護武田元光が社殿を造立した。また織田信長の若狭入国後、明智光秀中川重政丹羽長秀・木下秀吉連署社領安堵状(年不詳、社蔵文書)が出されており、天正13年(1585)に丹羽長秀の禁制が出されている。同15年には浅野長吉が二石余を寄進した。江戸時代にも小浜藩主酒井氏歴代が禁制を下している。
境内は男女の出会いの場として利用されたこともあったらしく、天明3年(1783)正月の魚屋権兵衛等連署誓約状に「神明宮境内ニおゐて、男女出合客家仕間敷候、夜ふんよふけてにきやしき事御座候ハゝ、組内たかいに詮義致合早速可申上候」とみえる。境内摂社に八百姫神社↓・熊野十二所権現があった。

 


『今富村誌』
無格社 神明神社(青井字玉椿)
一、祭神 天照皇太神、豐受皇太神
一、由緒 社記に曰く應永十四年の創立古神領一千石ありきといふ。天正十七年國守浅野長政以末代々崇敬神領二石餘を寄附せられ且つ年々祭典料を賜はる。明治三年社地改正の際上地となり明治二十八年九月二十四日福井県の許可を経て大字谷口より本地へ移轉す
一、社殿 間口 三間  奥行 二間三尺
一、境内神社 一社
   八百姫神
    祭神 倭姫神
    建物 三間四方
一、境内坪数并地種 百二十五坪 民有地第一種


『小浜町誌』
神明社
 小濱西郊熊野山ニ在リ。姫大神ヲ祭リテ内宮ト稱シ、内宮ヲ距ル山上数百歩ニ豊受太神ヲ祀リテ外宮卜稱ス。順徳天皇ノ御宇建保年中ノ創建ニ係レリ。傳言フ、筑紫ノー女子霊夢ニ感シ神託ヲ受クト、或ハ伊勢太神白椿山ニ降臨スト。附曾ノ説取ルニ足ラス。應永十七年守護一色義範華表ヲ造立シ、享禄二年國主武田元光神祠ヲ修造ス。其他浅野・酒井各國主亦奉供少ナカラス。昔時ハ神領北方宇見ノ荘、西方小堀村及内ノ浦ノ三所ニ在リト云フ。


遠敷郡誌』
神明神社 同村青井字玉椿にあり、祭神は天照皇大神、豊受皇天神なり、社傳に曰く応永十四年創立天正十七年浅野長政以来代々國主崇敬ありと、建保年中の創建にして応永十七年守護一色義範華表を造立し、享祿二年武田元光修造し近世に至る迄伊勢大廟を代表する神社として崇敬され来れり。


 境内に八百姫神社あり、祭神は倭姫命なり、元丹後街通より東の山麓に内宮と俗稱する社殿あり、更に数十間山中に登りて外宮と稱する社殿あり、今の街道は昔より十餘間東に転じて舊社地を横断し、社傳も合一して元の内宮と稱せし地點にあり、菊池氏代々祠官にして武田氏以来の名家なりと云ふ、傳説に曰く昔筑紫に王孫なる者あり、其の女十七才の時霊夢に依って伊勢大神宮に詣で菊池武弘なる者之が供たり、女官中に入りて七日を經て出で神託なりとて船を海上に浮べ其到着する所を居住の地となさんと云ひ、風浪に隨って漂流し船終に熊野山麓に漂着す、其時纜を繋ぎしものは即ち船留岩なり、上陸して熊野山に登り白馬の来り告ぐるに依て一石上に至り、十二子を産み伊勢大廟を祀り十二所権現を合せ祀り菊池武弘祠官となる。