森崎和江「ノン・フィクションとしての民話」(『詩的言語が萌える頃』所収)  メモ

これはすごいエッセイだと思う。

 

冒頭に森崎和江の見つづけてきたこの世の風景が語られる。

 

まるで大きな肉体のように関連としていた社会が崩れ、ひとりひとりの人間たちが、名づけようもないほどとりとめのない個体となるさまを、私はこれまで二度、みて来た。

 

 (中略)

 

私が立ちあった生活社会の崩壊のひとつは、私のたましいを育てた社会であった。それは一般的には植民地と呼ばれるのだが、そして私もそう呼んでいるけれども、個体にとってそれは正確とはいいきなれない。

 もうひとつは、炭坑の消滅である。

 ひとりひとりのたましいにとって、と言いたくなるほど、生活の具体的な場で他と結び合っている社会の崩壊は、人に世界が消え去ったような衝撃を与える。これまで、そして今も、数かぎりない崩壊がくりかえされている。全くたずねようもなくなった文明の跡が地球上には残っていたりする。事実ひとつの世界は消え去るのである。私が立ちあったものはそのような根も絶えるほどのものではなかったし、個体を無視するならば、崩壊とさえ言えない。

 

(中略)

 

 私は一度はそれをわが身を切り裂くものとして体験し、他の一度は切り裂かれる社会と個人とをみつめるごとく、経験した。そして、それらの上に、三十余年の植民地主義が切り裂いた他民族の、個体のイメージが重なりつづけた。そしてまた、くにの中でくりかえし崩れてきた生活の場の音を聞きつづけた。

 

(中略)

 

もし、崩壊に立ちあうことがなかったとしたなら、私は持続する側しか目に入らなかったろう。けれども気がついてみると、生の営みとは消滅を内に包むものであり、それへの愛が民話を生むとも言えた。ともあれ、生活の場を失うとともに無に帰ってしまうものの存在がたまらなくて、それが跡を残すかどうか、つい自他の内外にたずねてしまう。

 

これが森崎和江を生涯終わらぬ旅へと突き動かす、痛みと哀しみと満ちた「寂寞たるおわり」の風景であり、同時に「荒涼たるはじまり」の風景でもある。

この風景を生涯背負いつづけて旅をする森崎和江の「芯」にあるものに思いを馳せるとき、私は心底震える。

 

植民地について、森崎和江はこう語る。

 

私のたましいを養ってくれた山河を一口で語ることはできない。それは崩壊させられようとする朝鮮の民衆の血液であったろう。気づかずに、私は、あの土地ですべてを受けつつ育った。(中略)私を抱いて青空を見せ、人びとの中へ連れ出した人のぬくもりは、肉親ばかりでない。むしろ、守りをしてくれた朝鮮人の娘や母の腕がどっしりしている。彼女たちがにほん語でたどたどしく語り聞かせてくれた話……

「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがおりました」。私はそのスカートの膝に手置き、彼女を見上げながらイメージの空にのぼった。ごく自然に、朝鮮服の老爺と老婆のゆったり歩く姿を心に描いた。(中略)父母が語るにほんの昔話にも同じ姿の老人が心に描き出された。つまり朝鮮人たちが。 

 

そして炭坑について。

 自然と調和しつつ作物を育てていた人びとが、反自然的な労働を自らに課し、膨大な唄を作った。けものたちと心をつなぎつつ、農村とも漁村とも町とも違う社会を生み出した。

(中略)

それは農耕社会を基本とする私たちのくににとって、ほんの短い、そしてちいさな異変であったかもしれない。けれども、私には、それは知識階層がすりぬけてきた観念の操作をした時代であったかに思われる。おおげさに言うならば、やはり、神話への挑戦であった。

(中略)

 私は地上で働く者のやまの神と、坑内のヤマの神とが人びとの心で混在しつつ語り口を異にするのを、坑夫たちの張りつめた心をうかがいみるように聞いていた。

 

そして、森崎和江は、さまざまな文章で繰り返し記したエピソードをここでも記す。

「あのな、神さんも坑外のことは守りしなさるが、坑内のことは知んなれんばい。おっかさんが拝んでもらいに行きなったと、わたしが無事かどうか。そうしたら、神さんがわたしを一生懸命さがしなさるが、見つからん。わたしの消息が神さんにつかめんとたい。(中略) 神も仏も地の上のことたい」

この話をした女坑夫は、赤不浄の禁忌を破って坑内労働をした経験をこう語ったともいう。

「赤不浄のとき坑内に入っちゃならんちゅうのは嘘。かすり傷ひとつせんだった。あれは血の上の話たい。人間は、意志ばい」

 

そして、『海路残照』に記された、「八百比丘尼」伝説のことをここでも森崎和江は語る。その話は、筑前遠賀郡庄の浦に伝わる「長寿貝伝承」を発端とする。

八百比丘尼は人魚の肉を食べたために不死となった女の伝説、「長寿貝」はほら貝の実を食べて不死となった海女の伝説。長寿貝を食べた女は死ねないまま流れ流れて津軽まで旅をして、そこで出会った旅人に遠いふるさとの話をするのである)。

 

植民地、炭坑を経て、宗像に居を移した森崎和江は、今度は宗像を出発点に、海伝いに、「八百比丘尼」の伝承を追い、土地土地でその物語を語り伝えてきた者たちに思いを馳せ、そこに歴史の中に埋もれてきた「いのち」の声、「女」たちの声を聞き取ってゆく。

 

それは森崎和江の「渚」の物語でもあるように思う。

(「渚」というとき、私は石牟礼道子の「渚」をまずは思い起こしている)

 

私は、海の底から海の幸を採って食べ、死ねなくなった女の、そのははのくにをたずねてやりたいと思った。さいわい海女が住む浦は炭坑町から遠くない。私は地層の中の話と、海の中の話とを聞き歩きつつ、私たちのくににも、人びとに気づかれぬまま各種の生活文化は咲き香り、死に絶えもしたのだなと思った。また、それでもかすかな片鱗を残すものらしい、と考えていた。

 そう思い歩くと、海女は海が養う肉体の確かさを伝承するのか、若い頃は海中眼鏡も使わなかった人の新進は、未知なる海と熟知する作業の接点をしっかりと持っていた。それと同じように太陽から遠い所での労働だが、炭坑の人びととは比較にならぬ心の歴史を持っていた。そのゆうぜんとしたひろがりは八百年を生きた女をふしぎとも思わせないような、海洋信仰に支えられていた。また、同じ仕事をする海女社会が海の気泡のようにいくつもいくつもあらわれては消え、消えてはあらわれ、その総体を海辺の人びとは自分たちの生活社会として心に抱いているのを知らされた。

 

渚の人びともまた、自然と神話を書きかえる。(いのちはおのずと与えられた神話に挑戦する。炭坑の人びとがそうであったように)。

 

 神功皇后の伝承は国家神道では史実として神に祀られたが、この海辺では、あの人は朝鮮に里帰りした、とも言う。また海女の浦の鐘崎では、海女発祥の伝説を、朝鮮の海女と結婚した漁師の話として伝えている。いずれにせよ、船を漕いで朝鮮海峡を往来していた上代の暮らしを、まだかすかに伝えているのだった。

 

たとえば古代の海人族である宗像族が古代国家に組み込まれ、神話もまた書き換えられていったときに、海辺の人びとの生活にも大きな変動があったかもしれないと森崎和江は想う。森崎和江が経験したような痛切な崩壊。そして、その崩壊の片鱗が、民話にも伝承にも散り残っているかもしれないと森崎和江は考える。

 

こうして、宗像から、海伝いの、「八百比丘尼」の伝説を追う津軽への旅が始まる。

 

それは民話を語り出した人びとの心の肌にふれたい思いにすぎないのだった。私はそのような形ででもなければ、自分がこのにほんのくにの、植民二世という政治的な被造物であったことを脱していくのはむずかしい思いで、旅をはじめた。

 それは民話の表街道ではなく、それを語り出した人びとの崩れ去った生活を探ね出す旅に似ていた。柳田国男が、庄ノ浦の話は作り話だと書いていたことも気になっていた。私は庄ノ浦がかつては海女が住む浦であったことを確かめつつ若狭へ向かった。その海女たちの浦々へ。手がかりはかすかであろうとも、崩壊に立ち合ったものの感じとる民話発生の渦は、海鳴りのように聞こえていた。

 

この世の社会や国家の移り変わりの中で崩壊し、消えていった者たちの跡を、民話や伝承を手掛かりに歩いてゆく。そうしてにほんを、にほんの中から超えてゆく、困難な旅。

 

こうして書かれた『海路残照』を、私は、初めて森崎さんに会った時に贈られた。

鐘崎海女の資料も一緒に。

そのときの私はそのことの意味にあまりに無知だったことが、今、深く悔やまれている。私自身も遠い旅を重ねてようやく、森崎さんの「海路」にたどりついた。