◆組織化されなかった無産階級婦人の抵抗は、ひとりひとりのおばあさんのなかでは消えておりません。けれども抵抗集団そのものは挫折しました。そしてそのあとにつづくものは何も本質的に生まれてはおりません。一度の挫折も経験したことのない日本的母性は、いまもなお女坑夫の意識を奇型としてまるでかえりみることもしないのです。
ここには内側からぱちっと割れているような、あふれんばかりのエロスと力がありました。(『まっくら』あとがきより)
◆死について古来人びとはさまざまに考えてきているのに、産むことについてなぜ人間は無思想なのだろうと、若い頃から疑問に思ってきました。死は個人にとって、個としての生活を完結させます。これにたいして、産むことは個に限定しがたい生態です。それは異性と子にかかわり、他者の発見に通じます。(『いのちを産む』1994より)
◆なるほど男とことばと世界との内的連関はそうなっているのか、と思い、針に糸を通すように、いつかはその思考経路にちいさな穴をうがち、細い絹糸で女の世界と結びあわせたいものだと考えた。なぜなら人はくりかえし生まれ、かつ産みつづけているのに、産みの思想が文化から消えて久しく、そこはあっけらかんと真空であり想像力すらはばたかず、物質生産の原理に人の生ま身も知力もうばわれているのはさみしすぎるから。ただただ、さみしいから。
私は、人びとは死に対して想像力を育てたように、生誕に関してもまず女が口火をきることができれば、さまざまな角度から思想をかもし出し、生まれた人間から産む人間への過程をも意識化すると信じている。(『ゆきくれ家族論』1979より)
◆戦後社会の思想界は生命の生産に関する思想を生み出すことについて、まことに冷たいものだった。もっぱら生活資糧生産の次元での、世界認識や理論闘争にあけくれた。そのことが私をくるしくさせていた。たとえ物資生産の次元での不平等が是正へ向おうとも、また生活が豊かになろうとも、性は新しい生命につながるものだということに関する現代的思想がないかぎり、近代社会は足をすくわれる、と思った。 (『先例のない娘の正体』1981より)
闘いよりエロスを
闘いより愛を
断つのではなく、つながりを
◆植民地生まれの私には自分のことばは標準語だけである。彼の土地でそれ以外の自国語を耳にしたことがなかった。ことばがそうであるように日常のあらゆることがらが伝統から切れていた。 (「私を迎えてくれた九州」1968年 より)
私は個別的な傾向性を問わぬ没個性的ににこやか集団を、はじめてみた。
どこへむかってもこの九州(そしてにほん)では、個人の属性だけが問われて、人間の核心部分での対応は避けられていたのだ。いや意識して避けられるのではなくて、そうした対応を人々は知らないようであった。
◆私はぬきさしならなくなっているだけである。引きかえすすべがなくなっている。
人々はあげて「国家」を新しい共同概念にせんとしていた近代日本の初期に、村々から個々に追われ、世上のその新思潮と断たれ、それまでの自然観――神々と共存するその農民的精神的自然――から一挙に物質としての自然に直面し、共に在る何ものもなく、八方破れの状態でとにもかくにも或る固有の感性を確立している。
それはたとえば私のような小市民が、国家の概念を生まれながらに呼吸したり、近代をなにげなく身につけたりした過程とは確実に別種の精神の流れである。それは川筋気質などといわれるもののなかにもこめられているが、実はもっとなまなましく試行錯誤にみちていたことだろう。私の一回きりの生涯の出発点で、はやくもそれは、無言の批判者としてそこに在る。こうして坑夫と二重に自分を感じてしまうことが私を歩かせてしまう。 (『奈落の神々 炭坑労働精神史』はじめに より)
◆かつて子産みは血のけがれであった。村では村はずれに産屋を設け、女たちはここで子を産んだ。不浄の者との別火の風習によって、家族とは別火でつくられた。
(中略)
けれども神と民衆とが直接性をもっていたころは、いのちが生まれることは、死してそれがかえっていくくにから、その彼岸の摂理に従ってこの現実へと魂が送りだされることであったから、その摂理がおよんでいる産み女は、ぜひともそれにふさわしい場所を設けて移す必要があったのである。そこに産神が立ちあらわれる。
(中略)
あの世とこの世との境界である村はずれや海のほとりや山上に産屋が設けられた歴史は、死者へのつつしみと表裏一体をなしている。
(奈落の神々を追う森崎が、産小屋を訪ねて海沿いに旅する森崎でもあったことを、私がここであらためて想い起こす。)
(権力者からあてがわれたおのではない「土地の神」「ヤマの神」『奈落の神々」とは、おのずと生きるための闘いのよりどころとなる、抗う神となる)
◆詩、二つ 『北上幻想』より
「笛」
神も見えない無頼ですが
はるばると無量の風
ぬくもるまえに旅立ちながら
登録するのはごめんです
リボンも名もいりません
ささ笛 ひとつ
しょせんは人間ですが
しょせんはけもののむれですが
ほのほの 笛ひとつ
いとしい人よ
生まれておいで
はるばると無量の風の中です
「歌垣」
降りつむ雪と響きあう
北東北の山のエロス
いのちの子らが光ります
◆詩、またひとつ
遊女
つばを吐いて
とび散ったほうへ歩く
風がないね
(森崎の旅の心象)
◆私は、海の底から海の幸を採って食べ、死ねなくなった女の、そのははのくにをたずねてやりたいと思った。さいわい海女が住む浦は炭坑町から遠くない。私は地層の中の話と、海の中の話とを聞き歩きつつ、私たちのくににも、人びとに気づかれぬまま各種の生活文化は咲き香り、死に絶えもしたのだなと思った。また、それでもかすかな片鱗を残すものらしい、と考えていた。
そう思い歩くと、海女は海が養う肉体の確かさを伝承するのか、若い頃は海中眼鏡も使わなかった人の心身は、未知なる海と熟知する作業の接点をしっかりと持っていた。それと同じように太陽から遠い所での労働だが、炭坑の人びととは比較にならぬ心の歴史を持っていた。そのゆうぜんとしたひろがりは八百年を生きた女をふしぎとも思わせないような、海洋信仰に支えられていた。また、同じ仕事をする海女社会が海の気泡のようにいくつもいくつもあらわれては消え、消えてはあらわれ、その総体を海辺の人びとは自分たちの生活社会として心に抱いているのを知らされた。
渚の人びともまた、自然と神話を書きかえる。(いのちはおのずと与えられた神話に挑戦する。炭坑の人びとがそうであったように)。
神功皇后の伝承は国家神道では史実として神に祀られたが、この海辺では、あの人は朝鮮に里帰りした、とも言う。また海女の浦の鐘崎では、海女発祥の伝説を、朝鮮の海女と結婚した漁師の話として伝えている。いずれにせよ、船を漕いで朝鮮海峡を往来していた上代の暮らしを、まだかすかに伝えているのだった。
◆エッセイ「悲しさのままに」
かつての日本の植民地で生まれ育ったものですから、自分を生き直したくて、くりかえし日本とは何だろう。わたしとは、いのちとは、と自問しながら彷徨するのは、やむをえぬ道行きでした。
◆詩とは、自然や人びととのダイアローグだと、幼い頃から思っていました。
新しい境地、新しい言葉の世界、そういうものを切り拓かない限り、詩にはならない。
生きていく、ということは、やはり、対話する空間を作り合うことでしょう。
木霊のように返ってくること。響き合う力。同じ形でなくても、続いていく持続力というようなもの。(『森崎和江詩集』思潮社 インタビューより)
■詩ひとつ。森崎さんの。まるで遺言のような。
「祈り」
会いに行かせてね
風になって
きっとだよ
歌ってるからね
骨も
約束します
会いに行かせてね
海をこえて
指切りします
歌っていてね
泣いていても
みえなくってもよ
会いに行かせてね
歌ってるからね
ゆりかごの……