福井・小浜 落穂ひろい

 

若狭小浜 疱瘡神御守札

 

組屋六郎左衛門に伝り候疱瘡神の事は、永禄年中に組屋手船北國より上りし時、老人便せんいたし来り、六郎左衛門方に着、しはらく止宿いにて発足の時、我は疱瘡神也、此度の恩謝に組屋六郎左衛門とだに聞は疱瘡安く守るへし。とちかひて去ぬ。六郎左衛門其時の姿模様を書にうつし留し也。今有所の物かくの如し。寛延中京大阪にて開帳あり。

 

 

もう一つ。

 

 

若狭小浜の広峯神社は、本来牛頭天王を祀った社。

廣嶺神社由緒(昭和23年)に「貞観2年(860)播磨国廣峯から大中臣佐波近重が勧請した。
明治以前は天王社・或は、祇園社と尊称していた。
明治4年2月に竹原神社と届出たが、明治8年12月10日に廣嶺神社と改称した。
その後、昭和3年7月5日に廣嶺神社と変更された。
明治8年8月の小浜神社の創立以前は、小浜城下の地主神として国主・藩主・藩士・氏子一般の崇敬を受けて来られた。
しかし、以後、現在まで西津地区一円の産土神として奉祀している。

 

(中略)

 

御祭禮には三基の神輿渡御の行列に木造りの鎌鉾と獅子が加わって巡幸し、本殿に還幸の後、上竹原、下竹原の人々が鎌鉾を奪い取る行事があって、豊漁か豊作かを占ったと伝えている。

 

(中略)


 前記の3基の神輿とは、四角造りの神輿に牛頭天王、四角造りの神輿に八王子、八角造りの神輿に稲田姫(尼御前)をお遷しし、6月7日に、稲田姫、八王子、牛頭天王の順に出御され、14日の還御の時は、牛頭天王、八王子、稲田姫という順になる。
また、御旅所は、青井村に至り築山に設け、船にて帰座し給うを常としたが、或年 風浪烈しく船を破損したので、後は、府中に設けて陸路を経て帰座し給うとあるが、時には、漁人が船に御輿を奉移して府中に至り、神楽を供えたとも若狭郡縣誌に記してある。

 

稲田姫を尼御前と呼んでいる。