富雄川沿い(登美の小河)散歩  添御縣坐(そうのみあがたにいます)神社&根聖院 メモ


富雄川沿い 県道7号線を富雄駅から大和郡山の方向へと歩いて10分ほど、「添御縣坐神社」と刻まれた石柱のある角を、田畑に囲まれた変電所のあるほうへと左に折れると、前方に鎮守の森が見える。

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神社の参道、境内にあがる階段の手前の坂の左右に祠。どうやら観音像、手に蓮華を持っているところを見ると、聖観音か、登美の小河の水の神「十一面観音」か。

それにしてもきれいに割れている。

首から上と下がぼっきり折れているのが補修されているのだろうか。

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こちらの石像は、聖観音立像(貞享元年)、と「奈良市石造遺物調査報告書・調書編」にある。

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境内に上がっていって由緒書きの立札を見る。主祭神スサノオ。明治以前、ここは牛頭天王社だったはずなのだが、それは書かれていない。

そもそもは、この土地の神である武乳速命が主祭神で、牛頭天王は後から祀られるようになったようであり、江戸期には天王社と呼ばれていたと史料にはある。

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お賽銭箱の向う側、本堂前には鳥居。じゃらんじゃらんと鈴を鳴らすその紐には「家内安全  戊午 50歳 男」といった文字が書かれている。初めて見た。宮司に尋ねてみれば、奈良の神社ではよくあるものという。名前は書かずに、天干地支と歳を書いて、厄払いやさまざまな願い事をするのだと。

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境内には恵比寿神社もある。英霊殿もある。おそらく皇紀2600年に作られたのであろう、遥拝所もある。

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遥拝所は東方を向いて立てられた岩で、皇居を遠く眺めやる望遠鏡のような丸い穴が開いている。同じ登美の小河沿いの杵築神社にあったものと同じだ。

明治以降、神仏分離を経て国家神道に取り込まれた社に残る、皇国の跡。

 

本堂の背後の山には、天之香具山神社、その奥に龍王神社。龍王神社の祠のすぐうしろが龍神池。龍王神社の本社は、龍王山上にある龍王社なのだろうか。

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そして、境内から一段下がったところには鳥見山 真言律宗根聖(こんしょう)院がある。

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さてさて、あらためて宮司に尋ねたのである。

ここはかつては牛頭天王社ではなかったのか?

「はい、明治になるまでは牛頭天王を祀っておりました。本殿前の鳥居の柱に牛頭と刻まれていますよ」

ほお、どれどれ、

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読めない。「牛頭天王」しか読めない。

再び宮司に尋ねる。

「おそらく、奉造建牛頭天王御鳥居ではないでしょうか」

牛頭天王のことまで書かれた由緒書きのようなものはありませんか、とふたたび尋ねると、A4サイズ3つ折りパンフレットをくださった。

その「歴史」の項には、牛頭天王は登場しない。

 

 平安時代初期に編纂された「延喜式神名帳」という禅国の神社総覧によりますと、当神社は、月次祭新嘗祭に朝廷から幣帛を奉られて大社という格式を認められた神社として記されています。従って、延喜年間(901~923)以前すでに存在していたことは確実です。一説に、地元の古老の口伝として、祭神のうち、武乳速之命(たけちはやのみこと)の真の名は、富雄川の中流域一帯を開発し始めた首長である長髄彦(ながすねひこ)とされ、鎮座の起源はおそらく古墳時代まで遡ることができます。その後は、この地域は古代豪族小野氏の子孫が治め、農業の他に林業を業とする杣人の住む集落が点在していました。

 なお、当神社に隣接する根聖院の境内には三碓(みつがらす)の地名の起源となったとされる、三穴の凹みのある大石が展示されています。これは古代の唐臼の残片と伝えられており、一つの大石に掘り込まれた「三つからうす」が後に、「みつからす」へと訛化したとされます。

 

このあたりの寺社の由緒はほぼ、長髄彦(そこには長髄彦を討った神武天皇の影がある)、小野氏(ここには聖武天皇の影)、そして鳥見のセットですね。

 

さて、「祈祷とご利益」のところに、「歴史」には登場しない牛頭天王の名を見つけた。こうある。

祭神のうち建速須佐之男命は、かつては疫病退散伝説がある牛頭天王として祀られていて、しかも隣の根聖院の本尊が薬師如来であること、かつてこの地で薬草を栽培していたという伝説などを考え合わせると、健康を祈願する人々の精神的支えとなっていたようです。

 

明治の神仏分離の折に、同じく牛頭天王社からスサノオを祀る社へと替わった「杵築神社」と違って、この添御縣坐神社は実にさりげなく神仏分離の歴史を消している。

明治以前は神宮寺であった「根聖院」のことも、隣の寺と記すだけ。

 

牛頭天王薬師如来は同じ真言。オンコロコロ マトウギ センダンソワカ牛頭天王本地仏薬師如来

 

明治以前は、添御縣坐神社(おそらく地元では牛頭天王社と呼ばれていたはず)と根聖院(実は、真福寺という名だった)は、根聖院のほうが主の、おそらく同じ一つの山<鳥見山(とみさん)>としてここにあった。

 

おそらく明治以前の「鳥見山」の様子であろう板絵が、本堂前の拝殿の壁にかけられていた。

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さあ、ひっそりと神社の下にある根聖院のほうへと降りてみようか。

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これが、神社の「歴史」の項に書かれていた「みつからす」の石だ。

 

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そして、薬師如来がご本尊として祀られている醫王堂。

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醫王堂の中は薄暗く、扉のガラスの部分から中を覗き込んでもご本尊はうっすらとしか見えないのだが、なにやら険しい顔に見える。

 

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寺の境内にちょうどご住職が出て来て、山門の脇で草むしりを始めた。声をかける。

「いま、本堂を覗き込んでみたのです、ご本尊のお顔が随分と険しく見えました。お薬師さんなんですよね?」

 

ご住職曰く、ええ、お薬師さんです。ただだいぶ古くて、金箔がところどころ剥げているので険しく見えたのかもしれません。が、とてもお優しいお顔をしておられますよ。

「ここはすぐ上の神社の神宮寺だったのですか?」

「そうです、ここは明治以前は真福寺と言いました。当時は真言宗でした」

 

ご住職が言うには、今は生駒山真言律宗宝山寺の末寺で、つまりは西大寺の末孫寺になるという。

明治以前は、東寺や御室さん(仁和寺)の末寺だったこともある、明治の廃仏毀釈でいろいろあって、今は宝山の末寺になっている。ということなのだが、なにしろ廃仏毀釈の時に寺の古文書も資料も全部焼かれて残っていないので、寺の由緒についての確かなことが言えないし、推測で由緒を文字にしてしまうと、それが歴史になってしまうから、いいかげんなことはできないのだと住職は言った。

 

廃仏毀釈の歴史を一切語らない由緒書で、実質的には歴史を書き換えている上の神社と、破壊され記録も失われたこの寺の沈黙と、歴史に向き合う対照的な姿勢が実に印象深かった。

とはいえ、歴史に対する勝者の驕り、その一方での敗者のつつましさ、といったものを、いきなりそこに見ようとするのは、私のせっかちな願望だろう。

 

そう、歴史に対して、語られた記憶に対して、物言わぬ声がある。覆い隠され、書き直され、語りなおされた記憶がある。それは時代の流れの流れの中でたびたび起こったことなのだということを忘れまいと私は思う。

忘れるな、歴史はつねに書き換えられる、神すらも置き換えられるのだ、というかすかな声、かすかな傷跡は、歩けば、辺りを見渡せば、そこかしこにあるものだ。

とりわけ、風土の記憶の標(しるし)ともいえる古社や古祠や路傍の石仏石神には。

 

神社参道脇にあった痛ましい傷跡のある聖観音か十一面観音らしき石像も、神社の一の鳥居の外の道路脇に集められている小さな石像群も、廃仏毀釈の跡を残す遺物のようにも思えた。

 

かすかな標、かすかな傷跡、かすかな声を追いかけて、消された記憶に覆いかぶさっている歴史を引きはがして、観る、聴く、そして感じる。いまやっているのはそういう旅。