『北上幻想』抜き書き  まだ途中

 

<いのちの母国を探す旅 ①>

かつての朝鮮で生まれ育ち、敗戦後をいのちの母国を探し探し私は生きてきた。探すことはたたかうことでもある。自分とたたかい、文化の流れをかいくぐり、批判や孤独に耐えながら、いのちへの愛をそだてる。多くの人びとがいく代もそのように生きてきた。実らずとも朽ちようとも、求めながら。(まえがき より)

 

 

<なぜ海辺を旅するのか①>

私は地上の権威とは無縁な生き方に出会いたくて海辺を旅する。(中略)人間の歴史以前から吹いている潮風の中を。

 

 

この列島でくらしながら、私はありのままの私を生きたいと願ってきた。ゆれ動く政治にそめられず、わが体の声をとらえ、二度と他者を侵したくない。裸の自分と出会って、その私にすべてをかけて詫びたい。他民族の風土を心ゆくまでむさぼり食った私を。このくにの潮で洗われ、裸の私に出会いたい。そして子消し子流しに苦しんできたアジアの女性との通路をひらいて、男たちの扉をたたきたい。男たちへ呼びかけたい。(p71)

 

 

津軽に向けて>

その(朝鮮の女たちの野遊びの)唄声とチャングの音。あの表情。あれは幼い日、子守りの少女に連れられて、そして、どこなのだろう、あのリズム。あの声。空へひびく唄と踊り。足踏みならす女たちのそばで、私は、人間のことばとは野の花のように多様で、それぞれ自由なのだと全身で知ったのだ。(p75)

 

その、半世紀後の日本で、日本知らずの私は旅先の海辺で初めて耳にする老女たちの津軽ことばが、そのリズムのまにまに彼女たちの孤独な心身と明朗な視界を構成するものとして伝わったのだ。

そして今になって思う。私にとってタマカゼとは、出合いを求めて現世をさまよう魂だよ、と。 (p76)

 

<なぜ鐘崎海女? なぜ海辺? なぜ八百比丘尼

 なぜ産女鳥(うぶめ)?>
私が日本探しの手がかりとして旅する宗像海女たちは古事記風土記が編纂されるころは、すでに潜水漁も、そして船人たちも大和朝廷下に統合されてそれぞれの生業に従事していた。

(中略)

そのころ日本列島の北辺で、縄文土器や女人土偶とともに集落のくらしをしていた人びとの後裔は、その伝統をどのように子孫に伝え、あるいは変化させながらいく世代ものいのちをむすんでいたことか。

(中略)

子を産む機能への差別が祭政一致国家神道とともに日本帝国おおいつくした近現代のこと、その余波にゆれる列島の海上の小島で潜水をつづけてきた海女家族らは産穢をもっていなかった。血のけがれ観をもたぬまま、いのちは潮とともに胎に宿り、潮とともに海の彼方へとかえると語った。体内の生理の血、そして産のよろこびの血しおを地球をめぐる潮とともにしていた。(p124)

 

 

<いのちの母国を探す旅 ②>

旅を重ねながら明日を探す。いのちの母国を。今日この頃のあふれる物たちの背後に。列島統合史の流血、他民族侵略の戦乱、今なおひびく少数民族や女・子どもへの暴力等々の物欲権力欲のシステムから、大きなカーブを描いていのちの母国を探したい。(p124)

 

 

 

<旅に何を求めたのか?>

国のために産み、国のために死ぬことを、くりかえしくりかえし他民族の少女と共に求められ、犯され、売られ、殺された近代国家建国期。その歳月の間信ずることを求められた古代建国神話。だからこそ帰国して探し求めたのは消し合い殺し合うことのない精神の山河でした。その愛とたたかいの足跡。生命の平等観とその実現への祈りだった。そんなもの、夢だよと笑われながら。(p124)

 

 

 

鬼剣舞

鬼剣舞は鬼ではない。それは舞踏の勇壮さが伝えるように救済道の仏。おそらく北東北の諸地方に残る民俗芸能の多くには、非道な列島統合史へ対する、地元の地霊山霊の憤怒の声々が鬼へと象徴されていることだろう。そしてまたその発祥時の歳月や成熟のいく世代を経つつ、地域性を越えて人間救済の道をたずねるものへと自問をはらみながら育っているのだろう。(P168)

 

 

あの反閇の足踏みこそが悪霊を鎮め邪気を払う。(p170)

 

「もっとも欲しいもの、それはあの暗い神域を

ほろぼしてしまうほどの祭りだったのかもしれぬ」

       (森崎和江『遥かなる祭』より)

 

  

ようやくのこと、私にもひびく。明日生まれる胎児らのこえ。今年も終ろうとしている。二十世紀が終る。「おばあちゃんは年寄りだから知らないでしょう、今、地球は病気だよ」とつぶやいた幼児の声と共に私はまた旅へ出る。明日生まれるいのちへと。(p182)

 

 

◆おまけ:詩をめぐって

 

すぐれた詩人として人びとの意識にのぼっている谷川雁の作品を、私は好まなかった。というよりも、詩的完結というものを、決然たるモノローグと勘ちがいしているようなその発想を、敵視していた感がある。

(中略)

私は、詩とは、本来、他者とのダイアローグであると考えていた。自分以外の、自然や人びととの。 (詩集『かりうどの朝』あとがきより)

 

 

生きていく、ということは、やはり、対話する空間を作り合うことでしょう。

木霊のように返ってくること。響き合う力。同じ形でなくても、続いていく持続力というようなもの。

ずいぶんたくさんの人が私を包んでくださって、ここまで来ることができました。

(インタビュー「いのちの明日へと」より  『春秋』2009年10月号所収)