奈良県 田原本 天理 「牛頭天王」銀座を歩いて、ふっと牛頭天王と天理教を結ぶものを妄想した。

 

まずは長い長い前置き、牛頭天王ツアーの記録。

 

本日の牛頭天王ツアーは、ここから。

奈良県 田原本町 津島神社近鉄 田原本駅のすぐ近く)

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境内右手には、池の中に厳島神社(向かって左)、金毘羅神社(右)、

 

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豊受大神宮 その脇に「国威発揚」と記された石。

 

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いかにも、明治以降、国家神道に取り込まれることで生き抜いた神社らしいというか。

忠魂碑とか、日露戦勝記念碑とか、寺ではあまり見かけないものが、神社にあることの

意味を考える。

 

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さて、牛頭天王の気配をすっかり消されているかのような田原本津島神社の境内の隅に、「瘡神」(疫病神)発見。祭神は、疫病からのお守りの茅の輪を思い起こさせる「茅之姫の命」。

瘡神の祠。明治の初め、神仏分離の頃に、牛頭天王がらみのものは打ち捨てることを強いられたけれど、打ち捨てられずに、ここに辛うじて残したという感あり(あくまで個人的推測です)。捨てたら絶対祟られそうな空気が頑として漂う祠。

 

田原本の昔話によれば、

田原本町で古墳の形をとどめているものとしては、黒田の大塚古墳が有名ですが、田原本町のように平たんな土地では古墳は極めて少なく、その代わり「塚」と呼ばれるものは五十余りもあります。いずれも農業や牛馬の神として、また村人を災いから守るものとされ、野神信仰の地として、「ハツオ」(初穂)、「ハッタ」「八王子」「ハジョウ」(歯竜王)「クサガミさん」などと呼んで、今も信仰をあつめています。そこにはヨノミの大樹やセンダンの木などが植えられていたり祠がまつられていたりして、たたり地となっているところが多いのです。

 

 とある。

「八王子」は明らかに牛頭天王関連、「ハツオ」もおそらく「八王」でありましょう。

「ハッタ」=八田、ハジョウは「八王子」がなまったか?

最強の疫病神牛頭天王の8人の子ども、八王子もまた疫病神。

もともとクサガミ(疱瘡神)が祀られていたところに牛頭信仰・八王子信仰が結びついていったのか、経緯はわからないけれど、牛頭・八王子信仰が盛んであったことは十分にうかがわれる。

 

ということが、田原本津島神社を訪ねてリアルに感じられてきたところに、さらに天理・喜殿の八坂神社を訪ねて、ほおおおおお、となったのでした。

 

天理市喜殿  八坂神社(かつての牛頭天王社

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集落の方々がきちんと管理している感じのこぢんまりとした神社。

だけど、本殿脇の、ここには映っていない祠の中には、釈迦像、観音像、どなたかわからないが僧形の石像、そして十二神将風の像がちょっと気の毒な感じで、ずらりと仕舞い込まれていた。

 

目を引いたのは、八坂神社のすぐ裏手のこれ ⇓ 

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近所のおばさんに尋ねたところ、このあたりはかつてはこんもり丘のようになっていて、(おそらく、田原本のように野の神の宿る小さな塚ではないか?)、そこに八王子神が祀られていた。その丘が、道を通すために切り崩されたのだそうだ。

それでも大事なカミサマということで、今も変わらず、八王子神に1日、15日にはお参りするという。

この「八王子神」の碑は新しく作られたものだそう。

牛頭天王の気配を消した八坂神社よりも、道路を通すために潰されても地元の人々が新たに祀りなおす八王子神のほうに、怖くて頼れる牛頭天王信仰の確かな痕跡を残しているようにも思われた。

 

◆そして、天理・檪本の和邇下神社と柿本寺跡。

 

和邇下神社は、明治以前は、中世より江戸までずっと「上治道天王社」と呼ばれていた。

 

つまり、「牛頭天王社

 

そして、「柿本寺」は東大寺の末寺であり、檪本は東大寺の荘園であったという。

現在の和邇下神社の参道脇に柿本寺跡はある。

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詩歌文章歌ノ神  正一位人麿大明神。お参り、お参り。

すぐそばに新しい不動明王、首を落とされた跡のある古い不動明王

これもまた神仏分離以前のこの地の様子をうかがわせるもの。 

 

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⇑ つまり、東大寺領 櫟の荘を潤すために作られた水路の入口という大変重要な場所に「治道天王社」はあった。

 

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和邇下神社境内にある十二神社。明治以前は「十二権現社」だったのではないか。

と思ったら、かつては十二神将が祀られていたという。(浦西勉論文)

 

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灯篭に「治道宮」とある。 

 

さてさてさて、

問題は、東大寺の荘園内になぜに牛頭天王が勧請されたのか?(ということだと、龍谷大学教授だった浦西勉先生。)

 

中世には東大寺の政治的な力が弱体化の一途をたどっており、東大寺領の荘園に興福寺が年貢を要求してくるといった、農民側からすれば理不尽な要求が為されていたという。そこに対抗すべく、「郷村的共同体の要となる話し合う場所と信仰の対象」が求められた時に、「牛頭天王」が勧請されたのではないか、というのが、浦西先生の推測。

それがかなり興味深い。

重要なのは、

東大寺鎮守手向山八幡社ではなく、なぜ牛頭天王社だったのか、

ということ。

 

浦西先生曰く

治道天王社の絵画(柿本曼荼羅)と社殿が完成したのはおそらく室町時代の農民の成長が大きな一因になっているように思う。そしてその指導的役割を果たした柿本寺の僧侶の果たした役割は大きかったと思う。(中略)柿本寺の僧侶も百姓たちも(中略)「牛頭天王縁起」の説話に関心を示し心を寄せたのであろう。その内容は、富裕な権力者に対して抵抗し、貧しくても慈悲ある人を認めるという、権力者に対する一つのプロテスタントの思想が背景にあるように思う。そのことはとりもなおさず、室町時代土一揆にも通ずる社会現象でもあるのである。

 

 

在地百姓等がみずから選んだ神が牛頭天王であったこと。

これが重要。

さらに、牛頭天王を信仰を運んだ民間宗教者の役割も重要。

 

牛頭天王信仰h、おそらく在地百姓等の成長とあわせて当時発達しかけた商品や交通の発達ときわめて関係が深い。この時代の社会現象として京都の祇園社御師(民間宗教者)の活動がきわめて歴史的意味を持つのである。もちろんここでは祇園社御師のみを言うのではなく、念仏聖、山伏、琵琶法師、連歌師、説教芸能などの活動をするいわゆる民間宗教者の時代でもあるのである。

 

檪本の牛頭天王信仰の受容からわかることは、以下の3点ともいう。

 

「在地の百姓等と商工業が発達した地域であること」

「在地寺院の内部の僧侶の理解があること」

「商工業が発達し、理解のある在地僧侶がいる場所でこそ民間宗教者は活動できるということ」

 

そして、この3点は、どうやら、田原本津島神社牛頭天王信仰)の成立にも当てはまると、浦西先生。

 

そして、つまり、

田原本、天理、この一帯がかつては、「牛頭天王銀座」とでもいうべき、牛頭天王信仰の濃い土地であったということは、

ここが「富裕な権力者に対して抵抗し、貧しくても慈悲ある人を認めるという、権力者に対する一つのプロテスタントの思想」の脈打つ土地でもあったということ。

 

と、いうことが書かれている論文を、本日の「牛頭天王ツアー」ののちにふと思い出して、読み直して、

 

「そうか、牛頭天王は、プロテストであり、反骨であり、まつろわぬ意思の象徴であり、依代であったのだ」と、思ったとき、ふっと、この土地で、天理教は生まれたのだということを想い起こしたのだった。

 

ここから、妄想。

 

中山みきに最初に神が降りた時、彼女は山伏祈禱の依りましの役割を担っていた。

そして、ついに神の依りましでありつづけることを受けいれた中山みきがやったことは、まさに、「富裕な権力者に対して抵抗し、貧しくても慈悲ある人を認める」(牛頭天王祭文の内容)ということだった。

 

ここで、中山みきの生まれ育った場所が、大和神社の神域で、そこもまた牛頭天王色が濃かったこともまた思い起こされる。

大和神社の)社地はやや高い場所に鎮座、大和神社の森は極めて大きく長い。東側の一の鳥居から参道が200m位続いている。巾は30m程度である。 社殿のある杜は大きく広がっている。首の細長い壺のような神域である。しかし、かっては八町四方と巨大な神域であり、四至を固めていた神社があった。

【四至の固め】(耕作地・所有地・社域などの四方の境界)
 南西の固め : 素盞鳴神社(新泉町)の元の鎮座地(一本木さん)
        新泉町の素盞鳴神社は、元は、字南池辺の小丘に鎮座し

           て「一本木さん」と呼ばれていました。
        昭和17年に柳本飛行場が作られたとき、現在の場所に 

        移されました

                     。
 南東の固め : 素盞鳴神社(成願寺町)
 北東の固め : 素盞鳴神社(佐保庄町)
 北西の固め : 福智堂町の市杵島神社(現在この地は、畑となっておる。)
        明治42年に永原町の御霊神社に遷座


 神域の大きさは、 76万㎡ (東京ドーム16個分)

※明治以前は、素戔嗚社はほぼ牛頭天王社

 

出身地三昧田の産土神春日神社だが、境内には八坂社と素戔嗚社がある。

 

もうひとつ、興味を惹かれたのは、田原本・天理一帯には小さな丘(古墳)が多数あり、そこに人々が野の神(瘡神=疫病神)を感じとって祀っていたということ。そこに牛頭天王信仰が入ってくる素地もあったのではないかと妄想は広がる……。

 

そんなこんなで、 創成期の天理教の反骨と、富と権力と闘う牛頭天王の反骨精神を思い合わせて、ああ、天理教のことももっと知らなくてはいけない、と思い至ったのでした。

 

ここで、私が考えているのは、

牛頭天王という消されたカミを追うことで、

明治を境に、国家神道に宗教が再編されていった時代に、小さな共同体の産土神邪教淫祠と呼び捨てられ、その牙が抜かれていった、つまり、人々の反骨の精神が潰されて、忠君愛国の皇国臣民に作りかえられていく、その風景をたどりなおすことができるのではないか、ということでもある。

 

それは奥三河の、(なんと釈迦を殺してしまう反逆のカミ)牛頭天王を追うときにも、その出発点にあったものだった。