『クレヨンを塗った地蔵』より 抜き書き

津軽半島はいつ行っても、おがさまたちの手塩に染まっているかにみえる。おがさま、と、すこしくぐもったやさしいひびきで呼ばれるのは、四、五十代の女たちである。

 

津軽半島には大きな屋根をもつ神社仏閣は少ない。村むらには鎮守の森や氏神などの、村びとの公の祭祀をうかがわせる社はあまり育ってはいない。そして、それにかわるかのように、おがさまたちの心のこもった地蔵堂が、どの村の、どの集落にも、ちいさな板屋根をつけてまつられている。



地蔵堂はこの世とあの世とを音もなくめぐる大きな時計めいて、村の人びとの心象世界のまんなかに建っているのだった。それはどこの村のどの集落でも、村の入口(そして出口)にまつられているのに、人びとの心の世界はそこを中心に過去へも未来へもひろがっているかにみえる。地蔵堂は村によっては共同墓地のかたわらに、二坪か三坪ほどの小屋を建て、その土間のなかに幾段にも地蔵をまつる。村びとはその地蔵堂を、賽の河原と呼んでいた。

 

その賽の河原に集まる地蔵たちを眺めていると、どの地蔵も素朴な表情をしていて、供養者の心くばりが着物や頭巾の針目にみられる。地蔵を子に見立てていつくしんでいる思いが伝わってくる。また、それとともに、慈愛をこめてまつることで、かえって生者のほうが死者のくにから見守られている様子がしみじみとみえてくる。

 

 もしこの津軽に、こうしたおがさまたちの手塩に染まった風習がそだつことなく、男たちが主導する信仰の教義が入りこんでいたとしたら、村には大きな屋根をもつ神社や伽藍がそびえたことだろう。地蔵も、俗名を彫られたり、赤ん坊の着物を着せられて幾十となく寄りそうことなどなかったろうし、重要文化財にもなるような、そして女人禁制の奥の院すらしのばせるようなような、位階のある宗教界がひろがっていたことだろう。

 しあわせなことに、津軽半島の土には、おがさまと幼く去った子どもとの生死を越えた通い路が水路のようにこまかにひろがっている。

 

森崎さんにとって、津軽のおがさまは、鐘崎の海女とも重なり合い、響き合う存在であるかのようだ。