これは ⇑ 坂口恭平『建設現場』のなかの言葉だ。年末の予言のような言葉。

抜き書きしながら、自分の声も書きとめながら、これだけ読んでは意味をとりがたいであろう言葉の群れ。


もう崩壊しそうになっていて、崩壊が進んでいる。体が叫んでいる。体は一人で勝手に叫んでいて、こちらを向いても知らん顔した。


日誌にはなにか記録されていたが、どれも何語かすら判別できない。いろんな国の人間たちがいた。

私は一人で水を飲んでいた。その水がどこからきているのか、知らない。


振り返ろうとすると、また嘘の思い出が登場する。

視界が広がる。風景が見える。ところ、それで見えていることに慣れて、つい苦しさを忘れると、その先の風景がまったく見えなくなってしまう。まるで夢から覚めたみたいに、思い出そうとしても、次々に形を変えて、伝言ゲームのような最後にはまったくいびつな過去の風景が現われたりする。


しかし、本当にそうなのかどうかをいつも振り返ってしまう自分がいた。

しかし違う顔に見えているあけで、本当は毎日同じ労働者たちと働いているのかもしれなかった。


「読めるところだけ読めばいい」

誰しもそういうところがある、という声がしたがそれは頭の中の声で、わたしの声ではなかった。


音もせず突然崩壊ははじまる。わたしは崩壊自体を止めないことには、この建設は永遠に終わらないと思うのだが、そういう議論は一切出ない。むしろ、崩壊は建設の一部であると思っているようだった。


わたしは崩壊のたびに参加してはみるのだが、いつも初めてやっているように感じ、何からはじめたらいいのか躊躇してしまうからだ。


ここはいつか消えていく。」だからこそ、崩壊を止めなくてはいけない。



時々この建設現場で、わたしは別の場所のことを感じることがあった。しかも一つではなく、いくつも。

ここには何もいない。精霊もいない。(死者はいるようだ。)

彼らの手のひらは言葉よりも的確にこちらに感情が伝わってきた。


夢ならすぐに入ることができるのに、わたしはこの目の前の現実にすぐに入ることができない。

目は見えないものを探す道具に思えた。


「方法ならいくつもある」

まずはじめに疑う、そして味わう、そして空気を吸う、というようなむちゃくちゃな順番で生きていた。


わたしの体には眺めている景色が、充満していた。



12節
細部を見る。俯瞰する。それはどちらもわたしの目ではない。わたしは見ることはできる。しかし、見たものを記録するという作業に入った途端、それがわたしではなくなってしまう。わたしは、見ている状態をそのまま、わたしが知り得ない方法で、具体的に浮かび上がらせたい。

わたしは見たり、聞いたりすることが分かれる前、まだ一つの塊だったときのことを思い浮かべたりした。音というものは人のことを考えているのではないか。


腕にはめている計測盤  示されている数字や記号を読み取ることはできない。


体の動かし方が違うと言葉も聴き取れない。

わたしは自分の中で崩れ去っていく記憶のことを思い出した。

(崩壊しているのは外の世界だけでなく、自分自身のなかもまた。内と外の境目はよくわからない)

感じたまま書くということ。忘れぬためにではない。体が書かせている。


時間がいくつか流れていることは確かだった。

懐かしい気持ちなんてこれぽっちもないのに、わたしは見たこともない母親を、勝手にこしらえて帰郷の風景に浸った。そういう気持ちが次々と湧いて出てきた。


ありもしない故郷について懐かしんだり、存在しない肉親などをつくりだしていたのは、ペンだった。

(自他の境ももはやない)

わたしはペンにもなり、バルトレンにもなる。


ディオランド


わたしはクルーのことばを書く、わたしはクルーかもしれない


ある者は踊り、ある者は歌い、ある者は雄叫びをあげ、そこらじゅうにある石や崖、樹木などに体当たりし、その痕跡を残そうと、いや、痕跡ですらない。


人間が生まれるもっと以前の生き物の声が頭の中で、紙の上の洞窟の中で鳴り響いた。
わたしたちがいまこうして働いている建設現場がそれ以前にもあったことをクルーは伝えてきた。

サルト。猿人か? 


彼らは亡霊のように見えた。


わたしは横たわっている、なのに歩いている、


彼は息するように書きつづけている、私は息するようにそれを読みつづける、読まずにいられないのは、それが生きるということだからなのだ。


わたしの中に生息しているのは人間だけじゃなかった。人間だけで八百人以上もいたが、それ以外に数十匹の意に、猫は八匹、狼は山の中に数匹隠れていて、山は見たことのない植物で満ち溢れていて、水も流れていた。

たくさんの時間、たくさんの言葉、たくさんの記憶、たくさんの歌、たくさんの物語、


体は感じるためにある、感じることは生きて死んで、死んで生きて、建設して崩壊して、崩壊して、建設して、夢を見て、書いて読んで、その繰り返しだ、反復だ、反復だ、反復に絶望するかって?  するもんか、反復に気を取られるやつはまだこの世界の初心者だ、


生きるのには、水が必要、水が必要。


労働者たちはひたすら想像する、実在しない町から手紙が届く

この世のすべての記憶は私に流れ込む。

この世のすべての時間が私の中に流れる。

私は生きている、生きている。

町はいつまでもたってもできあがらない。


人間はあらゆるものが通過していく道のような役割を果たしていた。

わたしは時計を作っている。時計は言葉でできている。

まったく新しい歩き方が必要だった。
図面はすべて完成していたが、毎日変更が知らされた。

A地区はもう30年前から建設が止まっている。
B地区は建設中。
ディオランドという名の街がある。
どうせすべては想像の世界だ。だからってそこに生きている人間たちがみな幻ってわけじゃない。そこで生きているやつはすべて本当に生きている。
ディオランドは作られた故郷だ


道化師もいる。
彼は崩壊の秘密を知っているらしい。

F域 言葉は風の音 またの名をジンラ  地面だってここに住んでいるんだ


サルトは何人もいる。
語り手は一人ではない。


声は場所なのだ、言葉は場所なのだ。開かれている場所なのだ。


声はそれぞれに違うことを言う。
建設現場は建設現場でなかったりする
でも誰も混乱していない

管理部がある  手順部がある  設計部がある 労働者がいる 職人がいる  多くは名をもたない、もしくは忘れている


二部 様々な声

この現場の醍醐味は、それぞれがそれぞれの楽しみ方を見つけること。

現場はいつも、予感を秘めている。

建設はA地区からはじまった

市場もある。

医務局もある

本もある。

謎の水、もしくは謎の食べ物グロミヌ

労働者たちの頭の中で起きている思考の交通が、建設自体に何か影響を与えているようだ。



マウという名のたぶん神のモノガタリもある。都市文明の神、それが2の最後。



声たちの場所

ただ受け入れなきゃいけないんだ。自分で気づいてなくとも、おれはいろんなものとつながっている。


建設するほどに崩壊してゆく

この記憶は誰の記憶なのか?

塔が立っている。廃墟となった塔が。夢見る者たちが再建する塔が立っている。


わたしは放浪する
その放浪を私は追いきれない。


現場のことは何一つわからない。
メモして読んでいくのに突き放される。
「今では手帳を読み返しても、まったく思い出すことができない。過ぎ去った話なのか。これから起こることを想像しているのか、わからなくなるほど、書かれてあることは混濁していた。わたしだけが取り残されていた」


ロン。 大事な命の名前のひとつ。


4−99

放浪は草の中へ、砂の中へ、水の中へ、山の中へ、


神話が語られる。川が枯れたとき人間が現われたのだと。人間は川だった水滴だった、川の記憶は至るところに、何度も流れてくる、

川はすべてを思い出し、一斉に涙を流すように溢れだした。


植物が現われる、茂みのなかに動物が現われる、


これを設計している誰かがいる。誰だ?
おまえだ。


これはロンが書いた本なのか。


森へとわたしは入ってゆく


私は植物になる、虫になる、




トラックに乗ってまた建設現場へ。

賽の河原の石積みだ 死の世界から生が生まれいずるようだ

石を積み上げていくうちに世界が生まれる、人びとが暮らしはじめる

彼らにはわたしが見えていない

人びとは歌い、踊り、祭りをする


わたしは町になる  (神)になる



世界を書く  世界を観る  世界を生きる

けものにもなる
(表現する意志より遙か以前にすでにこの世界はリズムに充ち満ちている)


書きつづけたとしても、どうせまたわたしは繰り返すのだ。


しかし、今日はただ喜びを書けばいいのではないかと思う。

『野の道』の最後はこう締めくくられる。


野にあるものは野でしかない。それで充分である。ここには太陽があり土がある。水があり森がある。風が流れている。大きそうな幸福と小さそうな幸福とを比較して、それが同じ幸福であるからには小さな幸福を肯しとする、慎ましい意識がここにはある。宮沢賢治が、「都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」と言ったのは、このような場からにほかならない。

祀られざるも神には神の身土がある。

これは宮沢賢治春と修羅 第2集』 「産業組合青年会」からの言葉だ。
同じ言葉が、「作品三一二番」にも現われる。

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作品三一二番


 正しく強く生きるといふことは
 みんなが銀河全体を
 めいめいとして感ずることだ
   ……蜜蜂のふるひのなかに
     滝の青い霧を降らせ
     小さな虹をひらめかす
     いつともしらぬすもものころの
     まなこあかるいひとびとよ
 並木の松の向ふの方で
 いきなり白くひるがへるのは
 どれか東の山地の尾根だ
        (祀られざるも
         神には神の身土がある)
    ぎざぎざの灰いろの線
        (まことの道は
         誰が考へ誰が踏んだといふものでない
         おのづからなる一つの道があるだけだ)

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これを山尾三省はこう読み解く。

最初の光は銀河からやってくる。
次の光は神からやってくる。
三つ目の光は道から来る。


それは一つの真理を三つの側面から呼び上げたのだと。


二番目の「神」について、山尾三省の言葉。

「私達一人一人の本質は神である。私達一人一人は一個の神である。祀られる神もあるだろうが、祀られざる神もある。祀られようと祀られまいと、私達の本質は神であり、神はその身土を持つ。身土とは場のことである。土の上に立った人間の姿を身土と呼ぶのであるから、それこそはまさしく野であり、場である。絶対性を内蔵する絶対相対性原理である。すでに神で在る以上、祀られる必要はない」




この感覚を初めて私に教えてくれたのは、石垣島の、自称アキメクラの、三線おばあナミイだった。まるであたりまえのように、ナミイは、ひとりひとりの頭の上の神を語り、鳥獣虫魚草木に宿る神を語り、そのうえに、「あんたの頭の上には神がない」と言い放ったのだった。


それが16年前のことで、それから私はわれしらず神探しの旅に出て、そしていまこの山尾三省の言葉が水のように空気のように私の中に入ってくる。



そして、今福龍太さんがあとがきに引いている山尾三省の詩のこの言葉。これは風の言葉だ。


  ぼくはね
  かつて生まれたこともない存在だから
  死ぬこともない


これを今福さんは不生(生じることも滅ぶこともなくつねにそこにあること)の風と言う。
そして、不生の土に生きる、不生の夢を抱く者として、人は在る。
そのような人として、私も在る。

ただ「いま」「ここ」をかけがえなき永遠として生きる一個の祀られざる神であることを
夢みる者として、
その夢に届かぬ距離を修羅として彷徨う者として、
人は在る。
そのような人としての私が在る。


そんなことを静かな心で思う夕べ。
今夜はクリスマスだったな。

山尾三省の言葉を読むうちに、わけもなくざわめく心がだんだんと鎮まってゆく。


ここに書かれているのは、自我の外部へと出てゆくということ。


【問い】 いかにして「野の道」をゆくのか?

「野の道を歩くということは、野の道を歩くという憧れや幻想が消えてしまって、その後にくる淋しさや苦さをともになおも歩きつづけることなのだと思う」(山尾三省

シャマン・ラポガンは、文学におけるタオのことばと中国語の文字の関係を語る。これはとても大事なこと。


 親愛なる日本の読者のみなさん、私は小説や散文を書きますが、私が文を書く“母体”はタオ語で、文字は漢字です。漢人漢民族)の読者は、最初、私の作品を読むと、みんな私が書く漢字は“可笑しい”と感じるようです。その後、友人が私の作品の漢字や文法を直してくれましたが、あとで読んでみると、私の文学ではなくなっています。植民者と被植民者のあいだの微妙な関係について、ほかのことはともかく、文学作品についてだけ話しましょう。植民者は、順化させる者であり、同化させる者です。被植民者はことばと文字で順化され、価値観で同質化されるコロニー(生物集団)です。
 要するに、私は中国語の漢字によって順化されることを拒否しつづける海洋民族作家ではないということです。私が強調したいのは、私の体内に流れている血は“海の民の遺伝子”であり、多くの“ことば”は、民族固有のことばを中国語に翻訳してはじめて、その表現には感覚があるということです。このような感覚は中国語や日本語、あるいはその他の言語が英語に翻訳されたとき、訳語ではそれを完全に表現することができません。そうして、私は順化された“都市遺伝子”の原住民族ではなく、“海流遺伝子”の原住民族なのです。

 

タオの勇士の条件は極めてシンプルだ、しかし、きわめて難しい。近代によって牙を抜かれ、本能を殺された者たちにとっては。

ヤミ族の勇士の基準は、舟を造り、家を建て、トビウオを捕り、シイラを釣り、物語を上手に話し、詩を吟じる、これらのことがすべてできる、ということだ。