大神神社の神宮寺だった平等寺と、明治以前は妙楽寺だった談山神社を訪ねる。 その2 (備忘)

談山神社もコロナ対策で、正門は閉じ、西門だけで受付をしていた。

しかし、「別格 官幣社」って。明治の世に、神仏分離を経て、それなりに偉くなったんですね、談山神社

 

 

 

談山神社公式HPには、その歴史について、こうある。

御祭神 藤原鎌足

舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。 この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。

たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、 聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、 西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。

ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。 天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、 大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。 藤原の姓はここに始まります。

足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。 大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。

なんともざっくりとした、神仏習合にも、神仏分離にも全く触れない、当たり障りのない由緒書き。

 

談山神社の由緒書に抜け落ちている事柄を補足すると、

670年に現在は拝殿となっている講堂が創建され、そこが妙楽寺となったという。

ちなみに、701年に創建された神殿は、現在の本殿。

妙楽寺は、平等寺ご住職の文章にもあったように、平安時代に天台僧・増賀を迎えたり、鎌倉時代には曹洞宗永平寺の二世孤雲懐奘らが参学したりということがあり、同じく藤原氏縁の寺院である法相宗の興福寺とは争いが絶えなかったという。

天仁2年(1108年)、承安3年(1173年)と、興福寺衆徒によって焼打ちに遭っているというから、、なんとも凄まじい。

その後も永享10年(1438年)、南北朝の争いに巻き込まれた末に全山全焼、

永正3年(1506年)には、大和国人一揆に巻き込まれ、焼き討ちに遭う、

永禄2年(1559年)からの「多武峰合戦」でも戦乱に巻き込まれている。

いろいろあった末に、江戸幕府に3,000石余の朱印領を認められ、

その後、明治の神仏分離によって、妙楽寺は廃される、という流れになる。

 

この妙楽寺の別院が、同じく多武峰にある聖林寺なのだ。

聖林寺のHPには、「奈良時代和銅5年(712)に、談山妙楽寺(現 談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が建てたとされています。」とある。

当然聖林寺妙楽寺同様、何度も焼打ちにあったことだろう。そして、「江戸時代中期、大神神社の神宮寺の一つ、平等寺の僧侶・玄心上人が再興。以後、神宮寺との交流が深くなり、天台寺院である妙楽寺の山内にありながら、聖林寺真言宗の律院として明治時代まで栄えることとなりました。」ということになる。

なるほど、こうして、歴史の荒波の中で、平等寺ー大御輪寺ー聖林寺妙楽寺の関係は形作られていったのか、と遥かな昔を思いつつ、談山神社境内を歩く。

 

 

境内を見まわせば、ここはまるで寺なのである。石の階段の上に見えているのは、旧常行堂

 

 

 

常行堂と言えば、後ろ戸の神、摩多羅神。叡山の常行堂には阿弥陀仏の背後にこの荒ぶる芸能神がいるのである。妙楽寺天台宗、とうすうす思っていたら、やっぱりここにも摩多羅神はいたというわけだ。

談山神社ではちゃっかり、摩多羅神の芸能お守りを売っている。

もちろん、買う。

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常行堂の左手には、比叡神社の祠がある。もとは山王権現神仏習合

 

   

神社と言いつつ、神仏分離と言いつつ、ここは神仏習合の名残が色濃く残っている。

談山権現、勝軍地蔵、如意輪観音

 

 

  

 

そもそも妙楽寺のはじまりである、十三重塔。

 

そして、磐座、水神・龍神社 。水は大事、とても大事。

 

 

 

この磐座の脇を通って、談山神社の裏山、遥か昔に中大兄皇子中臣鎌足大化の改新の謀議を交わしたという、談山(かたらいやま)に登った。

 

   

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十分ほどのプチ登山。談山の小さな山頂には、「御相談所」と大書された石碑。

うーーむ、ご相談ですか。

いま、われわれがここで何事かをご相談するとすれば、やはりこのコロナ禍の世の改新であろうと、山伏と私。

神仏習合の世を暴力的に底からひっくり返して出現した、国家神道の近代を振り返りつつ、起源を無化してゆく「習合」という発想、山の信仰、修験という野生の宗教を想いつつ、復古などではなく、新たな世をへと今は閉ざされている水脈を拓くためのご相談をするのである。

 

コロナは人間とモノ(鳥獣虫魚草木から目に見えぬ一切すべてのモノ)の関係を根底から変えるはず、人間の命に対する向き合い方、結ばれ方を根本から変えるはず、命を金で測り、人間を生産性で測る世はもうおしまいだ。でも、具体的に、どうやって?

そこを御相談、というわけで……。

 

ああ、言い忘れていました。

そもそも談山神社に興味を持ったのは、佐藤弘夫『アマテラスの変貌 中世神仏交渉史の視座』で男神としての天照大神絵図(談山神社蔵)を見たことだった。

ものすごい髭の、衣冠束帯の男神だ。これを観たかったのだが、展示はされていなかった。

写真の説明はありません。

 

 佐藤弘夫氏いわく

天照大神はその性別や容姿について実にさまざまなバリエーションが存在したのであり、それが白衣の女神に統一されたのはたかだか百年ほど前のことにすぎないのである。

 明治期における神々のイメージの統合は、天皇制国家の形成とそのイデオロギー的基盤としての神道の浮上という現象と、密接不可分なものであった。それぞれの自社の判断にゆだねられていた神の図像に、国家的な規制の網がかぶせられるようになるのである。とりわけ皇祖神とされた天照大神像に対する干渉は厳しいものとなった。

 

この多武峰から近いところであれば、長谷寺にも童子姿の天照大神がいる。と佐藤弘夫は言う。「雨宝童子」。しかもご本尊の十一面観音の脇侍として、なのだと。

この雨宝童子と十一面観音に会いに、いずれ、長谷寺にも行くことになるだろう。

 

もう夕暮れも近くなってきた。山を下りよう。

談山神社を出て、奈良市内へといざ向かおうと走り出した車の右手に、不動の滝という案内板が見えた。お不動さんが岩に彫られていた。お不動さんと道を挟んで向こう側に、滝が滔々と落ちていた。

 

水の音を聴けば、命が潤う。

さあ、御改新! ですね。

尽きせぬ水の流れを心に宿して、帰途に就く。

 

  

 

 

 

 

 

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閑話休題  オリンピックがいやだ、と言って東京をあとにしたのは2019年7月。

奈良に住んでいる。土地勘も全くないまま、不動産屋にあちこち案内されたなかで、手持ちの貧しい予算の範囲でとこれならという家をようよう見つけて、富雄という土地に居を定めた。

 

奈良盆地の端っこ。目の前に生駒山が見える。矢田丘陵という丘陵地帯も見える。

六甲おろしは聞き知っていたが、生駒おろしもまた冬は寒くて、夏は蒸し暑いのだということを知った。

生駒を越えてくる雲は、生駒の標高分の高さにかかる雲で、だから富雄は空が低い、と住んでみて思った。空の高さ低さを感じたのは初めての経験だった。

向うの生駒とこちらの丘(登美が丘とかそういった名前の丘)と、その間の谷間を富雄川が流れる。

生駒が寺がやたらに多い民間信仰の山であることは知っていたが、

富雄川の川筋もやたらと寺や神社が多いことにすぐに気付いた。

そして、廃仏毀釈の歴史を、案内板を立て、寺や神社がしっかり伝えていることにも気づいた。

ご近所ですぐに足を運んだのは、真弓山長弓寺、海龍山王龍寺、杵築神社……

あちこちで不動明王を見つけた。役行者も見つけた。

さらに、富雄川にかかっている、いつも通る橋の名が「湯屋谷(ゆやんたん)橋」であることに気づいた時、ああ、ここは「熊野(ゆや)の谷」、修験の谷だったんだなぁと、ハッとしたのだった。

 

ここ数年、修験を大きな手掛かりの一つとして、芸能を考え、文学を考え、日本の根なしの近代を考え、近代を超えてつながっていく命を考え、野生の思考、水の思想とでも言うべきものを考えつづけていた。

 

それをさらに深く長く考えるには、まことにふさわしい土地に知らず知らず居を定めていた偶然を大事にしたいと思った。

 

目の前を流れる富雄川は、河内と大和の境の山である龍王山を源として流れ下り、明日香の法隆寺のほうへと脈々と流れゆく。

それもまた、十一面観音の水脈なのだと言うのは白洲正子『十一面観音巡礼』だ。

そのうち、きっと、富雄川を辿って十一面観音に会いにゆく旅に私も出る。

 

禍々しいオリンピックは、どうやら2021年7月に延期らしい。

無数の命を金づるにして、コロナ禍も追い風にして、オリンピックに群がるやつらがますますいやで、せめて命の水脈を取り戻す旅をするのだと、深く心に思う今宵。

 

 

 

 

 

大神神社の神宮寺だった平等寺と、明治以前は妙楽寺だった談山神社を訪ねる。 その1  (備忘)

4月15日。

本日はまずは、明治の神仏分離の折に三輪神社から追われ、別の場所に現在はある元神宮寺「平等寺」を訪ねる。

 

ここの御本尊も十一面観音だという。不動明王もいるという。神仏習合の山だった三輪山から払われた仏の部分、つまりは三輪山の<実>の部分の名残を訪ねようというわけだ。

 

左手に見える山は、三輪山

 

 

 

この山門が、旧平等寺の唯一の建造物という。

 

 

山門をくぐって、すぐ右手に「鐘桜堂」。梵鐘には十一面観音が彫りこまれている。

これは昭和62年再建。三輪山を追われてから110年目のことだ。

100円で、この鐘を一回を突けば、厄落とし。ゴーン。

 

平等寺HPには、寺の由緒はこうある。

伝承によれば、聖徳太子の開基、慶円の中興とされている。『大三輪町史』は、平等寺以前の大三輪寺遍照院の存在から空海開基説の存在も述べている。

 平等寺が前述資料に明確に現れてくるのは鎌倉時代以降であり、初見は「弥勒如来感応抄草」の1236(嘉禎2)年である。同書によれば慶円によって、三輪神社の傍らに真言灌頂の道場が建立され、その道場が「三輪別所」であった。この当時、平等寺が存在して「三輪別所」と呼称されており、その後比較的早い時期に「平等寺」という寺号で呼ばれることとなったことは確実であり、これが、現在史料で明確に確認できる最古の例である。

 

平等寺は、興福寺の末寺であったと同時に、修験道場でもあった。

以下、そのことが「由緒」に記されている。

 

 鎌倉末期から明治の廃仏毀釈までは、三輪明神別当寺の地位にたっていた。一方で、「大乗院寺社雑事記」には、興福寺平等寺に御用銭を課していることが見られ、大和国の他の寺院同様、興福寺の末寺でもあった。また、同時に修験道を伝えていたことから、醍醐寺との関係も保持していた。そのため、内部に「学衆(興福寺大乗院)」と「禅衆(醍醐寺三宝院)」という、二つの僧侶集団が作られ、両者が共存する関係にあった。室町中期には、禅衆と学衆が激しく争ったことも、「大乗院寺社雑事記」には描かれている。

 

 そして、江戸時代には、興福寺支配を離れ、真言宗の寺院となり、修験道も伝えた。

 

平等寺は内供といって皇室の祈願をするお寺でもあり、朱印地の石高は80石。また、伽藍配置は、室町時代の絵図により知られる。それによると、三輪明神の南方に慶円上人開山堂のほか、行者堂・御影堂・本堂・一切経堂など、東西500m南北330mの境内地に本堂をはじめとする七堂伽藍のほか12坊舎が存在したことがうかがわれる。旧本堂跡地は現在地の300m東にあり、三輪の1番地である。 

 

(中略)

 

当時の平等寺は南都大乗院の末寺であるが、大峰勤行の寺院でもあって、高野山金剛峰寺と同格であった。醍醐の三宝院などの大峰入りに関して、たびたび大先達役を勤仕した。それで、後年江戸幕府の大峰参詣の代参を奉仕して、その御礼を献上するために1814(文化11)年江戸に下っている。その道中記事「御礼献上記」は現存している。薩摩の島津家の大峰入りに関しても例外ではなく、恒例の行事として奉仕していた。

 
現在の平等寺曹洞宗。それは神仏分離廃仏毀釈の嵐を生き延びるための、宗旨替えだったという。神仏分離当時、平等寺は大阪の曹洞宗の寺院翠松寺の寺号をここに移した。

ふたたび、「平等寺」の寺号に復したのは、昭和52年のことという。

その詳しい経緯は、下記のようになる。

1868(明治元)年、神仏分離太政官布告が出される。これにより、1870(明治3)年には、平等寺は大御輪寺、浄願寺と共に三輪神社の神官が管理するにいたり、堂舎は破壊され、廃止となる。1959(昭和34)年の『大三輪町史』には、「三輪小学校北側の道を三輪山の方へ登って行く道を平等寺坂といい、この道を進んで翠松庵の横、大行事神社の前の坂道を登りつめると、平等寺跡がある。もと高野山の所管であったが、のちには奈良の大乗院の末流となった。いまから750年ほど前、僧慶円がこの寺に来て平等寺といい、大神神社の神宮寺のようになり、社僧は大神神社の式事を勤めた。境内の広さは南北328メートル、東西490メートルもあって、本堂は六間四面の瓦葺、本尊は聖徳太子御自作と伝える十一面観音秘仏であった。その他維摩堂・御影堂・上人堂・鐘楼などいろいろな建物があり、大智院・中之坊・常楽院・多楽院・吉祥院など九ヵ坊の僧房があった。明治元年神仏分離のとき、僧侶たちは還俗し、お寺はつぎつぎになくなって、現在はただその石垣ばかりが残っている。」「現在はその伽藍は存在せず、わずかに塔中の石垣のみが遺跡として存在する」と記されたが、実際には廃仏毀釈の直後、小西家より現境内地の寄進を受け、廃仏毀釈前の平等寺住職・覚信和尚と町内有志18名が塔頭の一部を境内に移し、本尊十一面観世音菩薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足石等を守り、曹洞宗慶田寺住職・梁天和尚が翠松庵の寺号を移し曹洞宗に改宗し法灯を護持した。

 

(中略)

 

 1977(昭和52)年、曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。丸子孝法の16年間の托鉢によって現在は伽藍も復元されている。

 

さて、現在の平等寺である。

本堂には十一面観音像がある。

 

境内には、弘法大師が信仰したという「波切不動明王」を祀る「波切堂」。

素朴なお不動さんだ。

 

山門から向かって正面の不動堂には、弘法大師作と伝えられる三輪不動尊、その脇に役行者、理源大師が祀られている。

写真を撮ったら、お不動さんの目が光っている。ちょっと怖い。

写真を撮って、ごめんなさい。

    

    

 

境内脇の階段を降りてせせらぎ流れる道を行くと、不動の滝。大峯に登る行者の修行場だった滝だ。

 

 

 

 

 

どう見ても、ここは曹洞宗ではなく、真言宗っぽい。修験の匂いが漂う。

本堂の十一面観音像のことが聞きたくて、寺務所の呼び鈴をならした。

若い副住職が対応してくださった。

 

「あの十一面観音像は、廃仏毀釈の折に救いだしたものなんですか?」

「いやいや、本堂の十一面観音像は、聖林寺の十一面観音を模して造ったものなんですよ」

 

えっ、それは、いったい?

 

副住職が教えてくれたことをまとめると、ざっとこんな話になる。

――聖林寺の十一面観音は、廃仏毀釈の折に大御輪寺から運ばれていったということになっていて、その覚書もあるが、あれはおそらく平等寺にあったものなのです。

つまり、平等寺には秘仏であり小さな厨子に納められている十一面観音があるのですが、その前立の十一面観音がいま聖林寺にあるものだと。

というのも、まず、光背まで合わせると、あの十一面観音の大きさからすると、大御輪寺の本堂には入りません。かつての平等寺の本堂は、今の平等寺の本堂よりも天井が9メートル高い。その高さがあって、初めて、あの十一面観音は入るのです。

おそらく、廃仏毀釈のどさくさの中で、いったん、大事な十一面観音を光背ははずして大御輪寺に避難させて、それから聖林寺へと移したのではないか。その際に、大御輪寺と聖林寺の間で覚書が交わされたのではないか。

そもそも聖林寺平等寺の住職の隠居寺でもあったのです。

 

(なるほど、先日の聖林寺ご住職の話と合わせて考えれば、当時の大御輪寺の住職は、当時の聖林寺の住職の弟弟子で、その聖林寺住職は元平等寺住職という、三寺がすさまじく近い関係にあって、そのなかで三輪山内の仏像救出に動いていた、という状況が浮かび上がってくるようだ)

 

今、平等寺があるところは、昔の平等寺へいたる平等寺坂の入口の下馬場でした。

この下馬場に、当時の平等寺住職覚信和尚をはじめとする有志が寺の仏像等を運び込んで、長屋を立てて、保管したのです。

寺自体も、大阪の曹洞宗の翠松寺の助けを得て、翠松寺と名を変えて存続を図りました。

それでも、私が子どもの頃は、それは昭和50年頃までのことですが、仏像は長屋にまとめて置かれたままで、長屋は雨漏りするようなありさまでした。

平等寺秘仏で、聖徳太子作と伝えられる十一面観音も、長屋にまとめて置かれている仏像の中にあったのですよ。

秘仏 十一面観音 御開帳は8月1日>

 

元の平等寺の境内は、今の平等寺の45倍あった、とおっしゃったのは現住職だ。元の平等寺の跡を見ようと、平等寺坂を上っていく途中、その昔は三輪山の年間行事等の取り決めをしていたという大行社の手前でご住職にはばったり会って、いま、平等寺を訪ねてきた所だとご挨拶申し上げたら、挨拶代わりにそのようなことを言われたのである。

このご住職の平等寺再興の執念は驚嘆すべきものがある。

寺でいただいた「平等寺だよ里」には、こんな一説があるのだ。

「托鉢をしてでも廃仏毀釈で廃寺となった平等寺の再興を」という先代師匠の遺言を守り、昭和46年秋より勧進托鉢に入りました」

 

かつての平等寺の寺領を描いた古地図が、現・平等寺の入口に掲げられている。

その広大さを見よ! とばかりに。

 

さあ、平等寺坂を上ってゆこう。

 

 

 

大行事社を過ぎて、しばらくは、左手に畑が広がる。イノシシと、畑の周囲の竹を盗伐する者を撃退するために、電流の流れる鉄線が張られている、とあちこちに警告文がある。いのししの罠にかかると死にますよ、と、人間に向けて。

この畑の中にかつて塔頭があった標の石垣がある。

 

さらに進むと、坂の左手に小学校跡、突き当たりには祠があり、その左斜め上に大三輪教のこじんまりとした建物があり、その前庭には護摩行の場がある。右手の奥が小さな滝。滝行の場だ。

 

ここで会った大三輪教の方に、昔話を聞いた。

それはおそらく、此の土地の人の記憶として語り伝えられたことなのだろう。

廃仏毀釈の折、広大な平等寺伽藍は焼き払われ、その跡地はこのあたりの大地主が管理することとなり、土地の所有者も寺から大地主に替わったということだが、平等寺跡は捨て置かれ、草生す荒地となっていた。そこに修行場を再興しようということで大三輪教(神道)が起こされたのだと。大三輪教の教祖が現在大三輪教の建物と行場のある場所を譲り受けたのだということだった。

 

 

 

 

 

 

そして、大三輪教の建物を正面に右へと登ってゆくと、春日社がある。その辺り一帯が平等寺本堂跡になる。

 

春日社の背後の森の向うが大神神社。春日社は大神神社の管理だと聞いた。

ここで同行の山伏が言った。

「ここだよ、ここ。こちらのほうが気が満ちている。大神神社よりもここだ。大神神社の裏にこそ、神仏習合の時代の息吹が潜んでいる」

 

聖林寺にやってきた十一面観音のことが気になって、平等寺にもあるという十一面観音も見てみたくて、こうして平等寺を訪ねてきたのだが、十一面観音の導きか、水の知らせか、虚ろな大神神社が追い払ったモノたちの呼び声か、縁をつないで探訪の小さな旅はまだつづく。

 

平等寺だよ里」第20号 丸子孝法住職が、現在の多武峰談山神社の前身、妙楽寺について、このようなことも書いているのだ。

大化の改新発祥の地とされる多武峰の歴史は、藤原鎌足公の遺骸を長子の定慧和尚がここに埋葬されたことに始まります。(中略)679年に多武峰妙楽寺が開創されました。

 1167年、大本山永平寺開山道元禅師の祖父藤原元房公が妙楽寺三重塔を寄進され、永平寺二代懐奘禅師、三代義介禅師、四代義演禅師が若かりし頃に修行された寺でもありました。

 

(中略)

 

しかし、残念なことに明治維新になり国家神道成立に向けて国学者を中心に原理主義になり、かの聖徳太子の御父用明天皇のみことのり「天皇は仏法を信じ神道を尊ぶ」という日本の国造りの根本を忘却し廃仏毀釈を断行し、多武峰妙楽寺の42の塔頭寺院は悉く整理をせまられ仏像は他所に運び出され全山廃寺となりました。

「托鉢をしてでも廃仏毀釈で廃寺となった平等寺の再興を」という先代師匠の遺言を守り、昭和46年秋より勧進托鉢に入りましたが、その頃から多武峰妙楽寺の一院の再興を心に念じてきました。

 

執念のご住職は、昭和52年に平等寺を再興しただけでなく、平成28年、ついに多武峰妙楽寺本坊の跡地500坪余りを譲り受け、妙楽寺の一院を再建することになったんだという。

 

私が次にめざすは、その妙楽寺のあったところ、現在の談山神社だ。

そもそも、先日訪ねた聖林寺妙楽寺の別院で、平等寺にあとには談山神社に向かうのは当初からの計画だった。

そんな私の目論見よりもはるか以前に、

水の流れは三輪から桜井へと、

聖林寺平等寺妙楽寺談山神社)へと、

滔々と流れてゆく。

 

しかし、中臣鎌足中大兄皇子はなぜにはるばる多武峰までやってきて密談なんかしたんだろうか、

なんで多武峰なんだ?

昔から謀反のかたらいは山の中……、

などと、まだ水の流れに乗せられていることにしかとは気づいていない旅人たちはのんびり言葉を交わしつつ。

 

 

 

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★ 今日の山伏の一言★

 

また、三輪に行って来た。先週の大神神社(おおみわじんじゃ)では、なんとも物足りないのである。本来の三輪山はどこにあるか?実はもう無いのだが・・・その痕跡は、裏側に残っていた。廃仏毀釈でぶち壊されてしまった三輪山別所。神宮寺の平等寺。現在の平等寺はその後の再興であるが、かつての平等寺の遺品がわずかに残されている。山中の元の本堂跡には、元々の春日神社だけが残されて、移築されて残っていた。この谷にはまだ修験のにおいが漂っていた。さらに、多武峰に足を伸ばし、修験の痕跡を探して歩く。今は、下界より山が安全である。

 

聖林寺に十一面観音を会いに行くつもりが、コロナのせいでまずは大神神社へ。其の二。(備忘のため、走り書き)

四月八日、大神神社を午後三時過ぎに出た。

登拝のあとなので、膝が大いに笑っている。

遠ざかる三輪山を眺めつつ、聖林寺へと車を走らせる。

 

 

桜井の町は桜が満開。

寺を訪ねるには少しばかり時間が遅い。

このお方に会いに行く。

 

 

 

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<これは聖林寺発行の絵葉書  観音像は撮影禁止>

 

和辻哲郎は、この十一面観音について『古寺巡礼』にこう書いている。

(引用、長いです。飛ばしても構いません。)

聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。これを三月堂のような建築のなかに安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう。

(中略)
 観世音菩薩かんぜおんぼさつ衆生をその困難から救う絶大の力と慈悲とを持っている。彼に救われるためには、ただ彼を念ずればいい。彼は境に応じて、時には仏身を現じ、時には梵天の身を現ずる。また時には人身をも現じ、時には獣身をさえも現ずる。そうして衆生度脱どだつし、衆生無畏むいを施す。――かくのごとき菩薩はいかなる形貌を供えていなくてはならないか。まず第一にそれは人間離れのした、超人的な威厳を持っていなくてはならぬ。と同時に、最も人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬ。それは根本においては人でない。しかし人体をかりて現われることによって、人体を神的な清浄と美とに高めるのである。

(中略)
 かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。

 

 

どんな構想力の結晶なのかと言えば、和辻哲郎の想像力は大陸を縦横無尽に走ってゆく。

 

そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。半裸の人体に清浄や美を看取することは、もと極東の民族の気質にはなかったであろう。またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。あのような肉づけの微妙さと確かさ、あのような衣のひだの真に迫った美しさ、それは極東の美術の伝統にはなかった。また沙海のほとりに住んで雪山の彼方かなたに地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。写実であって、しかも人間以上のものを現わす強い理想芸術の香気は、怪物のごとき沙漠の脅迫と離して考えることができぬ。さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。それは異国情調を単に異国情調に終わらしめない。憧憬を単に憧憬に終わらしめない。人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。

(中略)

 

われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。その幻視は作者の気禀きひんと離し難いが、われわれはその気禀にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。その感じを細部にわたって説明することは容易でないが、とにかく唐の遺物に対して感ずる少しばかりの他人らしさは、この像の前では全然感じないのである。

 

和辻哲郎の「十一面観音」賛はまだまだ続く。長い。

きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったいまぶた、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在のまなこである。豊かに結ばれた唇には、刀刃とうじんの堅きを段々にやぶり、風濤洪水ふうとうこうずいの暴力を和やかにしずむる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆こくしつの地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。
 この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。肉づけは豊満でありながら、肥満の感じを与えない。四肢のしなやかさは柔らかい衣のひだにも腕や手の円さにも十分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。
 かすかな大気の流れが観音の前面にやや下方から突き当たって、ゆるやかに後ろの方へと流れて行く、――その心持ちは体にまといついた衣の皺の流れ工合で明らかに現わされている。それは観音の出現が虚空での出来事であり、また運動と離し難いものであるために、定石として試みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功していれば、体全体に地上のものならぬ貴さを加えるように思われる。
 肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムをあたえている。
 横からながめるとさらに新しい驚きがわれわれに迫ってくる。肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。またその釣り合いの微妙な美しさ。これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である。われわれは観音像に接するときその写実的成功のいかんを最初に問題としはしない。にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな不自然が認められると、その像の神々しさも美しさもことごとく崩れ去るように感ずる。だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである。そのことをこの像ははっきりと示している。

  

一言でまとめて言えば、聖林寺十一面観音大絶賛!

どんなに語っても語り尽くせぬロマンが香り立つ。

そして、この十一面観音が明治維新をどう迎えたかと言えば、和辻哲郎はこう語る。

ここにも悲哀のロマンが香り立つ。

 しかしこの偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は三輪山みわやま神宮寺じんぐうじの本尊であって、明治維新神仏分離の際に、古神道こしんとうの権威におされて、路傍に放棄せられるという悲運に逢った。この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。

 

 

さて、大神神社から聖林寺までは車で二〇分ほど。その距離を廃仏毀釈の折に、大八車で、この十一面観音は運ばれた。もっと近い寺もあるだろうに、遠距離をそろそろと……。

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たどりついた聖林寺、門前から大和盆地が一望、三輪山ももちろん見える、

桜が咲きこぼれている、観光バス用の駐車場もある、

平日だからなのか、コロナのせいなのか、車は一台も停まっていない。

門前に建つ家に住んでいるらしい幼い姉と弟が駐車場のそばの公衆トイレ前の自販機で、ど~の ジュースに しようかなぁ、あああ~と歌っていた。

 

拝観は四時半までだ。間に合った。

受付に女性がひとり。他に人の気配はない。

本堂にあがる。そこにはまだ十一面観音はいない。

聖林寺御本尊のお地蔵さんがいる。

驚いた。

これがまた実に巨大な石仏なのだ、ほら、こんなに大きい。

 

<本堂も撮影禁止。これは月刊奈良2020年4月号より拝借>

 

いったい、この本堂にどうやって運び込んだんだ?

いやいや、このお地蔵さんは地つなぎでここで造られて、お地蔵さんを覆うようにして本堂が建てられたらしい。

元禄、あるいは享保の頃に。

女性の安産祈願のために。

 

白洲正子が『十一面観音巡礼』に、こんなことを書いている。

はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。(中略)桜井も今とはちがって、みぞぼらしい寒村の駅であった。聖林寺と尋ねても、誰も知っている人はいない。下という字があると聞いていたので、寺川にそって歩いて行くと、程なくその集落へ出た。村の人に聞くと、観音様は知らないが、お地蔵さんなら、あの山の上にあるという。

 

(中略)

 

聖林寺は今でこそ小さな山寺にすぎないが、その創立は和銅五年(七一二)、藤原鎌足の息、定慧が、父の菩提を弔う為に建てたと伝えている。その後、談山神社の別院として栄えたが、度々の火災に会い、衰微していたのを、鎌倉時代に、三輪の大御輪寺の長老、慶円上人の助力によって再興した。現在のお堂は、徳川時代の建築というから、その後もしばしば災害に見舞われたのであろう。土地の人々が「お地蔵さん」としか知らなかったのは、貧しい民衆によって、辛うじて支えられて来たことがわかる。

聖林寺HPでは、さらに、「江戸時代中期、大神神社の神宮寺の一つ、平等寺の僧侶・玄心上人が再興」とある。)

十一面観音は、秘仏だった。

その秘仏の禁を解き、国宝として保護される道筋を作ったのが、フェノロサ

明治の世の国宝制度創設の折、国宝に指定されている。

しかし、どういう経緯で、十一面観音は聖林寺に来たのか?

 

本堂から観音堂へと、階段をのぼり、渡り廊下を歩いて、移動する。

まじまじとカビの匂いのする堂内で十一面観音を見つめる。

凛々しい。流れる水の手が呼び出したようなたおやかなフォルム。

 

観音堂と本堂を結ぶ渡り廊下には、この寺の来し方を物語る木札がずらりと並ぶ。

天保天明、文化、文政、享和……。寺の護摩供の札。

 

   

 

 受付にもどってきて、女性に聞いたのである。

どういう経緯で十一面観音は、ここに?

女性がよどみなく答えた。

ここはかつて学びの寺、真言宗の律院として、学僧たちがここで学んでいたのです。

ここで学んだ学僧のひとりが、廃仏毀釈の折の大御輪寺の住職でした。

その住職が、兄弟子であった聖林寺の住職に、十一面観音を託しました。

と、よどみなく答えてくれた。

この受付の方、ただものではない気配が漂う。

しかも、この答えは、和辻哲郎が『古寺巡礼』に記したものとは違う。

 

ふたたび白洲正子聖林寺に十一面観音がきた経緯をこう書いている。

十一面観音は、三輪神社の神宮寺に祀ってあったのを、明治の世の廃仏毀釈の際に、ここに移されたと聞いている。住職は当時のことをよく覚えていられた。発見したのはフェノロサで、天平時代の名作が、神宮寺の縁の下にあったのを見て、先代の住職と相談の上、聖林寺に移すことにきめたという。その時住職は未だ小僧さんで(たしか十二歳と聞いた)、荷車の後押しをし、聖林寺の坂道を登るのに骨が折れたといわれた。

 

そうではありません。

和辻哲郎も、白洲正子も、白洲正子に経緯を語った当時の住職も間違っています。

と、きっぱり言うのは受付の女性だ。

いや、その女性に手渡された『月刊奈良』で、彼女がインタビューでそう語っていたのだ。

受付の女性は聖林寺のご住職だった。

 

 

 

十一面観音と前立の十一面観音、そして地蔵菩薩が、明治元年(一九六八年)三月の神仏分離令により、同年五月に三輪山大御輪寺から聖林寺に預けられる。

そして、大御輪寺の最後の住職から聖林寺に「大御輪寺の復活はないとみたのか、明治六年に覚書が渡されています」と。

そのおり、預かっていた地蔵菩薩も、学僧つながりで法隆寺塔頭、北室院に移される。

なるほどね、なるほどねぇ。学僧つながりねぇ。

もとは談山神社神仏分離以前は妙楽寺)の別院で天台宗だった聖林寺が、江戸期に三輪山平等寺の住職によって再興されてから、真言宗へと宗旨を変えて、大御輪寺とも学僧つながりの縁が生まれ、それが明治に至って三輪山の仏像救済へとつながってゆく。

なるほどねぇ。

縁の下の仏像を発見して聖林寺に運び込んだという、いかにも面白い話よりも説得力がある。

 

と、そんなあれこれを見聞きしながらも、実を言えば、一番面白かったのは、聖林寺から戻ってきて白洲正子『十一面観音巡礼』で知った、十一面観音それ自体の由来なのだった。

 

(十一面観音は)生れは十一荒神と呼ばれるバラモン教の山の神で、ひと度怒る時は、霹靂の矢をもって、人畜を殺害し、草木を滅ぼすという恐ろしい荒神であった。そういう威力を持つものを遠ざける為に、供養をおこなったのがはじまりで、次第に悪神は善神に転じて行った。しまいにはシバ神とも結びついて、多くの名称を得るに至ったが、十一面の上に、千眼を有し、二臂、四臂、八臂など、様々の形象で現わされた。日本古来の考え方からすれば、荒御霊を和御霊に変じたのが、十一面観音ということになり、(以下略)

 

つまりは、十一面観音を祀る心は、大物主を祀る心と同じであったということ、

水と火を祀る修験を仲立ちに。

 

なるほどね、なるほどねぇ、十一面観音がそこを去った時、三輪山はおそらく「水」を失ったのでしょうねぇ。

 

明治の世、近代のはじまりは、「水」を捨てるところから、はじまったのでしょうねぇ。

 

(水を失くした大物主は、いかなる心でこの百五十年を過してきたのだろう)

 

 

 

 

 

 

聖林寺に十一面観音を会いに行くつもりが、コロナのせいでまずは大神神社へ。其の一。(備忘のため、走り書き)

そもそもは安藤礼二の『列島祝祭論』に、伊勢ー室生ー初瀬ー三輪ー大和―若狭を結ぶ水の道があること、それは水の女神  「十一面観音」の道でもあるのだと教えられたことが事の発端。

(ちなみに、東大寺の火と水の祭典 お水取が、若狭と伊勢の結び目になっている。その結び目には修験の思考が見え隠れする。安藤礼二はこう言う「「水取り」は、仏と神との約束、つまりは最初期の神仏習合――しかし、そうした融合状態が、この列島に定着した最初期の仏教の真実であったのかもしれない――儀礼に、その起源を持っている。「水取り」がはじまった段階で、この列島においては、すでに、仏教と神道の相互浸透がはじまっていたのだ(中略)修験がはじまるのも、そうした地点、「古密教」(雑密)による神仏習合から、であろう」。しかし、こういうもろもろは、ほんのきっかけに過ぎない)。

 

水。と聞くだけで心が震えるのだ。

山。と聞くだけで、沢を流れる水音、滝を流れ落ちる水しぶきを想うのだ。

私にとって、水とは、いつの頃からか、山から湧きいずる水、山を流れ落ちてくる水であって、それはまた「いのち」の別名でもある。

 

若狭から大和へと水を送る鵜の瀬を訪ねたことがある。

初瀬川の流れるところ、長谷寺を訪ねたことがある。

初瀬川のさらに上流、室生寺を訪ねたことがある。

山の中だ。生まれたばかりの川が流れているところだ。

とはいえ、そのときは、それぞれに別の目的で「水」を訪ねていたのであって、それが一つの水脈を形作っているとは思っていない。

 

私にとって、命の別名である「水」。

安藤礼二が指し示した水の道では、「十一面観音」が「水」の別名となる。

ああ、そうか、水の道、命の道の道しるべなのだな、観音様は。と私は勝手に納得する。

ならば、あらためて、十一面観音を訪ねる旅に出るぞ、

と、すぐにこらえ性もなく何かを思い立つ癖のある私は、あっという間に旅の構え。

 

これは修験の思考が脈々と流れる水脈、水の道であもあるゆえ、わが家に棲息するいかがわしい山伏を旅の先達とすることにする。

 

というわけで、まずは、まだ一度も行ったことのない、奈良は桜井市聖林寺にあのフェノロサも激賞したという十一面観音に会いに行こうと思ったのである。

聖林寺の十一面観音は、もともとは大神神社の神宮寺である大御輪寺の御本尊だったものだ。明治の廃仏毀釈の折に聖林寺にかくまわれた。
(ちなみに大神神社の神宮寺は、大御輪寺、浄願寺、平等寺の3つ。)

そういうことならば、聖林寺を訪ねるのにあわせて、ついでに大神神社も行ってみようかと軽く考えた。それが先週4月1日のこと。

すると山伏がこう言うではないか。

あんなコケオドシの巨大鳥居を立てているところは気が進まないね。

 

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(これが、山伏言うところのコケオドシ鳥居)

 

さらに山伏がこう言うではないか。

行くなら、三輪山の麓の鳥居やら社殿なんかじゃ意味がない。そこに神はいない。三輪山に登るんだ、山が御神体なんだ、そこにご登拝しないと意味がない!!

うーーーん、確かに言うとおり、しかし、今回は大神神社は私の中では聖林寺探訪のおまけのようなものでした……しかも、今は山に登る体力がない、(なにしろ往復3時間の登山行という)、と小声で言って、すっかり山伏のご機嫌を損ねた。(そういうことをいうヤツは、修験にとって山が何たるかを分かっていない、ということだ)。

 

一週間。反省して、登山に向けて英気を養い、その間に大神神社について、聖林寺のついでではなく、しっかり調べた。大神神社のHPなんぞは当てにならない。廃仏毀釈後の新しい伝統は、とりあえずは要らない。

そして、大神神社には、今だからこそ行かねばならぬ。いうことに気づいたのだった。

 

世はコロナ禍。

 

一方、大神神社の祭神の大物主とは、記紀において日本史上最初のパンデミックの原因となった「祟り神」であると同時に、祀られることによってパンデミックを抑えた「守護神」だったのだ。

 

論文「都市の大物主:崇神朝の祟り神伝承をめぐって」(坂本勝 法政大学国文学会 2011-03)の冒頭にこんなことが書かれている。

古事記日本書紀によると、第十代崇神天皇の時代に天下が疫病が蔓延し、人民は絶滅の危機に瀕した。愁い嘆く天皇の夢に神の知らせがあり、原因は大物主の祟りであることがわかった。朝廷ではこの神の命じるままに手厚く神祭りを行ったところ、疫病は終息し、人民に繁栄がもたらされた。

(中略)

大物主とは何者なのか

(中略)

大物主とは、大いなる自然の内部に都市と国家を作りだしてしまった人々が、みずから生きたその歴史と現実にたいして抱いた畏れと不安、あるいは自然と社会を貫いて蠢く見えざる霊威の化身、ということになる。 

 

さらにこんなことも。

 

風土記にしばしば語られる通行人を殺して往来を妨害する祟り神伝承も、この時代の祟りが異なる共同体が接する領域において頻繁に発生していたことを物語っている。

 

したがってその霊威は、本来固定した場所に存在するわけではない。それは目に見えずに、自然と人間の諸関係の間を浮遊している。大物主は海の彼方の見えざる異郷から来臨したという記紀神話の語り方もそのことを暗示している。

 

その浮遊するモノの霊威を鎮める<自然>の領域として、古くから御諸山(三輪山)は浄化と再生を担ったのである。

 

しかも、大物主、自然、それだけが「モノ」なのではなく、人間もまた「モノ」。

物の怪、精霊、目に見えない、つかみがたい、恐ろしい存在としての「モノ」。

 

そのモノ(人間)の内部に蠢く無気味な力を、それを包み込む大いなるモノ(自然)の力によって浄化再生するシステムを語るのが記紀風土記の祟り神伝承であり、その神話的起源が崇神朝の大物主伝承なのである。

 

勢いがついてむやみに引用してしまった。

無策無能な現代日本の「大物主/コロナ」との対峙を思い、ここ日本で国家が成立し都市が生まれた、そのはじまりのときの大物主との対峙に思いを馳せる。

 

大いなるモノ、山、自然、祈り、命がけの必死の祈り、命を守るための祈り

(少なくとも、王として、権力者として、崇神は責任をまっとうしている。あくまで神話上の話ですが)

 

4月8日、いよいよ三輪山登拝。

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 〈巳の神杉。ここには白蛇が棲む。三輪明神は蛇に化身する。巳さんには卵を供える>

 

 

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狭井神社は水の神。狭井は、賽にも通じるのだろうか>

 

 

登山口の入口は狭井神社。神の水の社だ。

登山道の脇には水が流れる。

沢とは言い難い、小さな流れだ。

水音を聴きながら、登りはじめる。

ここは花崗岩の山だ。(と、山伏が言う)

流れる水には鉄も混じっているのだろう。水にさらされ、赤くなっている岩も目に付く。

風が吹いている。

山を覆う緑のどこからか、桜の花びらが舞い降りてくる。

山を登る。

 

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モノについて、思いをめぐらしながら登ってゆく。

 

山道には、生い茂る木々の根が蛇のようにうねって這っている。

大物主は、蛇身となって妻問いした神でもある。

木は、大地と天をつなぐ水路のひとつなのだ、天に向かって吹きあがる「水」なのだ、つまり木は「龍」なのである、ということを教えてくれたのは、易を研究しているわが老師だった。

 

祟り神大物主の「物」とは、「老子の「物」の概念によっている」と言うのは、保立道久氏だ。

 

老子』の「物」という観念は神話に由来する言葉である。中国神話の実像は(中略)現在では、その原点が殷の時代にあったことが、甲骨文・金文や鼎などに鋳込まれた怪異な動物の象形の分析から明らかになっている。注目すべきは、それらの動物の象形は「物」といわれて、各都市国家の氏族のもつ氏族標識(トーテム)であったことである。それらは牛や鳥や龍などの姿をもっていたが、「物」は「牛」偏で、本来は特別な「牛」を意味したからトーテムのもっとも普遍的な形は牛だったらしい。

 

で、大事なのは、ここ。

この「物」という言葉が日本の神話や文化のなかに、ほとんどそのまま入り込んでいることである。たとえば、奈良三輪山にこもる「大物主」という神の「物」が同じ意味の「物」であって、この「神の気」は疫病をはやらすと同時に大地の豊穣をもたらすものでもあった。

 

 さらに面白いこんな記述。

 

日本史で重要なのは、地域の神々が災害を起こす「祟り神」と指弾されて仏教に帰依した例が多いことである。たとえば若狭国の若狭比古神社の祭神は「疫癘しばしば発し、病死のもの衆し。水旱は時を失い、年穀は登(みの)らず」という疫病と旱魃が重なるという大災害に直面し、その責任を感じる中で、「我、神の身を稟け、その苦悩はなはだ深し」と告白した。そしてその神自身が「仏法に帰依して、もって神道を免れんと思う。この願い果すことなくんば災害を致さん」、つまり、より普遍的な宗教である仏教を帰依したい、そうでなければ自分自身がまた災害をもたらす結果になってしまうぞと人々に告げたというのである(『類聚国史』巻一八〇)

 

 神々の「神身離脱」。この中で仏教化した神社、いわゆる神宮寺が形成されていったのだという。

これこそが、(中略)日本の神道と仏教が習合して、「本地垂迹」「和光同塵」という関係になっていく原点にあった。

 これは、中国で老子が目指したことを日本では仏教がやったということである。これは自然なことで、(中略) 

まず老子の思想は中国の神話的な神観念に強く影響して、その中から道教が生まれた。この道教は朝鮮を通じて日本の原始神話(そして後に神道となるもの)に強力な影響を及ぼした。問題は仏教であるが、実は、仏教も中国に伝来した始めには、老子の哲学と似たものと受けとめられて流布し、中国に根付いていった。(中略)実は釈迦は、この老子が天竺でとった姿なのであるという伝説さえつくりだされた。

 

この仏教が百済を通じて、六世紀頃に日本にやってくる。

この時代、日本ではちょうど神話時代の最末期であり、仏教は中国の道教の影響の中で形をとった日本の神話の神々に再び大きく影響し、その神話の神々と習合し、「神身離脱」させ、全国で神宮寺の建立を進めたのである。 

 

老子道教→仏教  

この流れのなかに、大物主→三輪明神  神宮寺としての「御輪寺」 修験にとっての水の女神・ 十一面観音 があったということにもなるのだろう。

 

「牛」偏の「物/モノ」を思う時、やはり世に広く知られた疫神「牛頭天王」が思いだされる。

 

牛頭天王であり大物主であるモノどもが、この時代にはただ災厄として怖れられ、尊ぶことも、祈ることも、この一五〇年ほどの間に忘れ果ててしまったこともさっぱり思い出すこともないまま、モノをコロナと名づけて力ずくで封じ込めようと人間どもが慌てふためいて駆けずり回る、今のこの時代へと思いが及ぶ。

 

三輪山は山中の石を聖なるものとして祀り、(辺津磐座、中津磐座、奥津磐座)、それは巨石というより、小ぶりの群れなす岩としてある。無数のモノども宿した岩。

(山伏いわく、それらは無数の墓のようでもある。賽の河原のようでもある。無数の死者たちの気配に包まれてゆくようでもある。その気配は、山頂の高宮神社から奥津磐座への二〇メートルの小道のところで溢れだしてくるようでもある。私にはそれはよく分からない。山の中腹、不動明王が祀られた三光の滝から上は、水の流れは見えない、聞こえない、それが私には心許ないのである)

 

とはいえ、内に水をたたえてそびえたつ無数の木々の根は地の中、地の上をくねって、のたうつ蛇のようで、山頂に近いところに群生する全身いぼで覆われているがごとき「烏さんしょう」の木は、それ自体が疱瘡神のようにも見える。

 

三輪山は「大物主」の山、と言うとき、そこでは、なにかが匂いたつ。ムンとまとわりついてくるモノどものにおい、それに私はだんだんと包まれてゆく。

 

そして、においをかんじることはよきこと私は感じている。

 

モノたちの山。

 

モノは見えない、水の音、風の音にまぎれてモノは聴こえない、

でも、においはある。

 

モノを畏れよ。モノを尊べ。モノに祈れ。

 

そのにおいは、形のあるなしにかかわらず、そこにいのちがあることをほのかにささやきかけているようでもあるようなのだ。

 

人間もまたモノなのだということ、それもまたあらためてつくづくと思い起こす。

 

モノを畏れよ。モノを尊べ。モノに祈れ。モノとともにあれ。

 

そんなことを感じながら三輪山に登り、三輪山を下ってきた。

二時間半。

ひどく疲れた。

 

ここで、大事なことを忘れずに書き留めておかねばならない。

いま、大神神社には、当然のことながら「十一面観音」はいない。

明治の神仏分離によって、神宮寺の廃絶とともに、追放されている。

 つまり、大神神社は、十一面観音に象徴される「水脈」からは、みずから関係を断っている。

思うに、今の大神神社によって祀られる三輪山にあるのは、山を畏れ敬った太古よりの山岳信仰の、ほんの上澄みのようなものだ。伝統の衣をまとった、近代的山岳信仰とでも言おうか。

 

だから、わが先達の山伏は、大神神社の枠内の三輪山には、ほぼ興味を示さなかった。

いわば、そこは、空虚な山。

 

さあ、聖林寺に行こう。十一面観音が待っている。

お山を追われた平等寺にも行ってみよう。十一面観音が待っている。

 

旅は空虚をはじまりとする。

 

※山伏は、少し澄まして、FBにこんな記事をアップしていた。大人の対応。

三輪山に登拝。ここにはオオモノヌシが祀られている。これは疫病神。かつて都に疫病が蔓延し、人口が半減した時に、この神を祀ることで、疫病を収めたとか。悪をもって悪を制す。明日9日が大祭で、きっとコロナ退散を祈祷していただけるものと思うが、一日早く、自分で祈祷してきた。退散してほしいのはコロナだけではないので。アベノウイルスも一緒にご退散いただく。(残念ながら山内撮影禁止)

 

 

 

 

 

 

 

 

土のことを何も知らなかったんだな。『土の文明史』(デイビッド・モントゴメリー) メモ

認識を変える記述のランダムな抜き書き

 

宗教改革

十五世紀には、教会は地域によっては五分の四もの土地を所有しており、貴族をしのぐヨーロッパ最大の地主となっていた。教会の土地を取り上げることをもくろんでいた君主とその支持者は、小作人の間に拡がっていた憤懣を利用した。宗教改革への大衆の支持は、信教の自由と同様に土地への欲求にも依拠していたのだ。 

 

◆新世界進出

帝国や宗教的自由への飢えと同じように、文字通りの飢えはヨーロッパの新世界進出を後押しした。スペインを初めとする、西ヨーロッパでもっとも人口密度が高く、もっとも絶え間なく耕作されている地域が、もっとも積極的に新世界を植民地化した。 

 

人が増える→農地を求めて森林を切り開く→さらに人が増える→農地を求めて急傾斜地の伐採も始める。→地滑りが起きる、土壌浸食が起きる

 

不在地主経営のプランテーションアメリカ南部のタバコ・綿花農場、奴隷労働、将来の土壌に責任を持たない現場監督、植民地のモノカルチャー経済……

 

土壌の回復をまったく考慮せず、土を疲弊させては新たな土を求めて移動していく西部開拓者たち。

 

奴隷制度とモノカルチャーと土

 

南北戦争奴隷制度をめぐる戦いだったと誰もが教わるが、南部の経済を特徴づけるタバコと綿花のモノカルチャーが、利益をあげるために奴隷労働を必要としたことは習わない。文化的因習というだけでなく、奴隷制度は南部の富を支えるものとして不可欠だったのだ。(中略)奴隷制度は、南部一帯で一般的だった輸出志向の換金作物のモノカルチャーに重要な役割を果たしていたのだ。

 

奴隷制度の制限が経済的に重大なのは、土壌疲弊がプランテーション農業と南部経済の形成に中心的役割を果たしていたからだ。

 

その土地に合わせた農業は、細かな配慮と柔軟性を農場経営に持たせるように細心の注意を払うことを必要とする。不在地主、雇われ監督、強制労働にはそれができない。さらに、力によって維持される敵対的な労働体制は、必然的に労働者を一ヵ所に集中させる。単作プランテーション農業はこのように、奴隷労働の法則と機械的手順にちょうど向いていた。同時に、毎年決まりきった単純労働に従事させる場合に、奴隷は最大の利益を生んだ。

 

奴隷労働には単作農業が必要と言ってもいい。そのため一年の大半、土地は裸のまま放置され、侵食されやすくなる。単作への依存は輪作と厩肥の安定供給源の増加を共に妨げる。タバコか綿花以外に何も栽培されなければ、餌となる穀物や牧草が不足し、家畜を飼うことができないからだ。いったん定着してしまうと、奴隷制度のモノカルチャーを経済的に不可欠なものとした。――そして逆もまた同様であった。南北戦争までの半世紀、南部の農業は奴隷労働に依存した結果、土壌保全策の普及を阻害した。それは土壌の疲弊を保証したも同然だった。

 

奴隷制と資本主義、植民地主義、われらの今をあらためて考える・・・。

 

そして、水俣の意味も。

窒素が新興財閥として植民地に進出し、また、水俣天皇行幸するということの意味を、あらためて<化学肥料ーアンモニアー火薬>のラインと、<植民地モノカルチャーー奴隷労働>のラインとの交差するところで考え直すこと。

 

◆ハーバーボッシュ法(これは日本窒素が水俣工場で実験プラントも経ずにすぐに取り入れたアンモニア生成の最新技術)

天然の肥料であるだけでなく、硝酸塩は火薬の製造に不可欠なものだ。二〇世紀初頭には、工業国は国民に食料を、兵器に弾薬を与えるためにますます硝酸塩に頼るようになっていた。

 

硝酸塩の供給を断つ海上封鎖に弱いことから、ドイツは大気中の窒素を捕える新たな方法を開発しようと相当な労力を費やした。 

 

一九〇九年 フリッツ・ハーバー、液体アンモニア製造成功

一九一二年 カール・ボッシュ、最初の商用プラントを建設開始。

 

第一次大戦後、軍需工場が安価な化学肥料を作りはじめる。

 

水俣) 

1906年 野口遵(のぐち・したがう, 1873-1944)、曾木電気株式会社創立。

1908年 日本カーバイド商会と合併し、日本窒素肥料を設立。石灰窒素・硫安の製造に成功。

1921年 野口遵、訪欧し、カザレ―法アンモニア合成技術の導入を決める。ニトロセルロース(綿火薬の原料)の製造を手がけ、軍需基幹産業に転換。

 

アンモニア工場の建設は、第二次世界大戦の前夜に再び本腰を入れてはじめられた。テネシー川流域開発公社(TVA)のダム群が、火薬生産のために新しく建設されるアンモニア工場に格好の立地を提供した。日本がパールハーバーを攻撃したとき、稼働していた工場は一ヵ所だけだった。ベルリン陥落までに10カ所が稼働していた。

 

水俣) 

1925年に現在の北朝鮮の赴戦江でダム建設、それはTVAのダム開発の規模に勝るとも劣らぬと誇られたものだった。

1927年 朝鮮窒素設立。(以降もダム建設による電源開発は続く)

    興南の大コンビナート建設。

 

戦後、世界中の政府は、突然不要になった軍需工場からのアンモニアの市場を探したり、育成したりした。

 

火薬から化学肥料へ。

 

アンモニア生産の99%を越えるハーバーボッシュ法の主要原料は天然ガス。世界のアンモニア生産の80%は、天然ガス由来。(1989年現在)

 

※つまりは、農作物も石油によって育まれているのだということ。

 

私たちが耕土をどのように扱うか――地域に順応した生態系としてか、化学物質の倉庫としてか、あるいは有毒物の処分場としてか――は、次世紀の人類の選択肢を決定する。ヨーロッパは、世界の資源を分相応に大きく支配することで、人口増加に間に合うように十分な食料を供給する古代からの苦労から抜け出した。アメリカは西へと拡張することで同じサイクルから逃れた。現在、耕作可能地という基盤が縮小し、安価な石油もつきかえようとしている……

 

新しい農業の哲学的原理は、土壌を化学システムとしてでなく、地域に適応した生物システムとして扱うことにある。 

 

農業システムのもっとも安価な資材である土壌は、常に軽視される。――手遅れになるまで。したがって、私たちは農業を現実に適合させねばならないのであって、その逆ではない。土地に合わせて形成された人間の慣習や伝統は持続することができるが、その反対は持続できない。 

 

山のものは山へ、川のものは川へ  『いざなぎ流祭文と儀礼』メモ

高知県旧物部村。いざなぎ流太夫のひとり計佐清太夫の言葉。

山の神を祭るときにとくに注意すべきは、これら眷属たちをきちんと祭ることにある。眷属たちにたいして「言葉をかけてやる」ことが必要なのだ。それを忘れると、山の神の祭りそのものがうまくいかない。 

 

 

※山の「眷属」とは―――

◆道六神(道の神)、

◆四足(四つ足の獣、山の動物たちの魂魄)、

◆すそ(人の憎しみ、妬みのあらわれ、その魂魄、いわゆる呪詛と区別するが重なるところもある)

◆山みさき、川みさき―――大川、小川などが合流しているところに棲息する山川の魔物。

◆六道神―――山や川で不慮の事故で死んだ者の魂魄。無縁仏となっているもの。キュウセン、山スズレ、川スズレともいう。

 

物部の山々には、数多くの山のものたちが棲んでいる。八面王・六面王・山姥・山爺・山女郎・山の魔・川の魔・山犬・山猫……。

 

旧物部村別役 小松神社 定例の祭祀に先立って、いざなぎ流太夫によって行われた臨時祭(昭和62年11月27日)

神社参道改修工事、一の鳥居の洗い清め、二の鳥居の建て替えに際して、工事の無事を「願かけ」したことへの「願ほどき」が目的。

 

参道や鳥居建立の工事、作業を進めるうちに、山の木を伐ったり、山や川を汚したり、また工事に携わった人たちの間に、何か言い争いごとなどがあったかもしれず、そのために神様にたいして「曇り」や「隔て」ができた。工事によって、山のものや川のものを「起こしてしまった」から、「山のものは山へ、川のものは川へ」、送り鎮めねばならない。また人々の言い争いによる曇りや隔ても「きれい」にしなければならない。それが今回の臨時祭を行なう理由である……。(by計佐清太夫) 

 

山のものは山へ、川のものは川へ

 

侵犯すれば、祟りがある、山のもの、川のものに憑依される、あるべき場所、生きるべきところに、それぞれが境を侵すことなく、それぞれを尊んで生きるということ。

 

 

ところで、

おこぜの次郎」をなかだちに、龍宮乙姫と山の神が結婚する、親に秘密で山の神と通じ、妊娠した乙姫が龍宮世界から追放され、やがて山の世界で山の神の子供たちを数多く出産する。(これは各地に伝わる山の神祭文と共有される内容という)。

 

ただ、いざなぎ流では、山の神は天竺から来臨する。その神の許しなくしては山の樹木を伐ることはできない。(祭文は、杣人たちがいかにして樹木を伐ることを許されたか、神話的起源を語る)

 

山と海との婚姻と言えば、石牟礼道子「於古世野魚万呂」を思い出す。

 

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