聖林寺に十一面観音を会いに行くつもりが、コロナのせいでまずは大神神社へ。其の二。(備忘のため、走り書き)

四月八日、大神神社を午後三時過ぎに出た。

登拝のあとなので、膝が大いに笑っている。

遠ざかる三輪山を眺めつつ、聖林寺へと車を走らせる。

 

 

桜井の町は桜が満開。

寺を訪ねるには少しばかり時間が遅い。

このお方に会いに行く。

 

 

 

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<これは聖林寺発行の絵葉書  観音像は撮影禁止>

 

和辻哲郎は、この十一面観音について『古寺巡礼』にこう書いている。

(引用、長いです。飛ばしても構いません。)

聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。これを三月堂のような建築のなかに安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう。

(中略)
 観世音菩薩かんぜおんぼさつ衆生をその困難から救う絶大の力と慈悲とを持っている。彼に救われるためには、ただ彼を念ずればいい。彼は境に応じて、時には仏身を現じ、時には梵天の身を現ずる。また時には人身をも現じ、時には獣身をさえも現ずる。そうして衆生度脱どだつし、衆生無畏むいを施す。――かくのごとき菩薩はいかなる形貌を供えていなくてはならないか。まず第一にそれは人間離れのした、超人的な威厳を持っていなくてはならぬ。と同時に、最も人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬ。それは根本においては人でない。しかし人体をかりて現われることによって、人体を神的な清浄と美とに高めるのである。

(中略)
 かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。

 

 

どんな構想力の結晶なのかと言えば、和辻哲郎の想像力は大陸を縦横無尽に走ってゆく。

 

そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。半裸の人体に清浄や美を看取することは、もと極東の民族の気質にはなかったであろう。またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。あのような肉づけの微妙さと確かさ、あのような衣のひだの真に迫った美しさ、それは極東の美術の伝統にはなかった。また沙海のほとりに住んで雪山の彼方かなたに地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。写実であって、しかも人間以上のものを現わす強い理想芸術の香気は、怪物のごとき沙漠の脅迫と離して考えることができぬ。さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。それは異国情調を単に異国情調に終わらしめない。憧憬を単に憧憬に終わらしめない。人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。

(中略)

 

われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。その幻視は作者の気禀きひんと離し難いが、われわれはその気禀にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。その感じを細部にわたって説明することは容易でないが、とにかく唐の遺物に対して感ずる少しばかりの他人らしさは、この像の前では全然感じないのである。

 

和辻哲郎の「十一面観音」賛はまだまだ続く。長い。

きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったいまぶた、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在のまなこである。豊かに結ばれた唇には、刀刃とうじんの堅きを段々にやぶり、風濤洪水ふうとうこうずいの暴力を和やかにしずむる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆こくしつの地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。
 この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。肉づけは豊満でありながら、肥満の感じを与えない。四肢のしなやかさは柔らかい衣のひだにも腕や手の円さにも十分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。
 かすかな大気の流れが観音の前面にやや下方から突き当たって、ゆるやかに後ろの方へと流れて行く、――その心持ちは体にまといついた衣の皺の流れ工合で明らかに現わされている。それは観音の出現が虚空での出来事であり、また運動と離し難いものであるために、定石として試みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功していれば、体全体に地上のものならぬ貴さを加えるように思われる。
 肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムをあたえている。
 横からながめるとさらに新しい驚きがわれわれに迫ってくる。肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。またその釣り合いの微妙な美しさ。これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である。われわれは観音像に接するときその写実的成功のいかんを最初に問題としはしない。にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな不自然が認められると、その像の神々しさも美しさもことごとく崩れ去るように感ずる。だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである。そのことをこの像ははっきりと示している。

  

一言でまとめて言えば、聖林寺十一面観音大絶賛!

どんなに語っても語り尽くせぬロマンが香り立つ。

そして、この十一面観音が明治維新をどう迎えたかと言えば、和辻哲郎はこう語る。

ここにも悲哀のロマンが香り立つ。

 しかしこの偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は三輪山みわやま神宮寺じんぐうじの本尊であって、明治維新神仏分離の際に、古神道こしんとうの権威におされて、路傍に放棄せられるという悲運に逢った。この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。

 

 

さて、大神神社から聖林寺までは車で二〇分ほど。その距離を廃仏毀釈の折に、大八車で、この十一面観音は運ばれた。もっと近い寺もあるだろうに、遠距離をそろそろと……。

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たどりついた聖林寺、門前から大和盆地が一望、三輪山ももちろん見える、

桜が咲きこぼれている、観光バス用の駐車場もある、

平日だからなのか、コロナのせいなのか、車は一台も停まっていない。

門前に建つ家に住んでいるらしい幼い姉と弟が駐車場のそばの公衆トイレ前の自販機で、ど~の ジュースに しようかなぁ、あああ~と歌っていた。

 

拝観は四時半までだ。間に合った。

受付に女性がひとり。他に人の気配はない。

本堂にあがる。そこにはまだ十一面観音はいない。

聖林寺御本尊のお地蔵さんがいる。

驚いた。

これがまた実に巨大な石仏なのだ、ほら、こんなに大きい。

 

<本堂も撮影禁止。これは月刊奈良2020年4月号より拝借>

 

いったい、この本堂にどうやって運び込んだんだ?

いやいや、このお地蔵さんは地つなぎでここで造られて、お地蔵さんを覆うようにして本堂が建てられたらしい。

元禄、あるいは享保の頃に。

女性の安産祈願のために。

 

白洲正子が『十一面観音巡礼』に、こんなことを書いている。

はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。(中略)桜井も今とはちがって、みぞぼらしい寒村の駅であった。聖林寺と尋ねても、誰も知っている人はいない。下という字があると聞いていたので、寺川にそって歩いて行くと、程なくその集落へ出た。村の人に聞くと、観音様は知らないが、お地蔵さんなら、あの山の上にあるという。

 

(中略)

 

聖林寺は今でこそ小さな山寺にすぎないが、その創立は和銅五年(七一二)、藤原鎌足の息、定慧が、父の菩提を弔う為に建てたと伝えている。その後、談山神社の別院として栄えたが、度々の火災に会い、衰微していたのを、鎌倉時代に、三輪の大御輪寺の長老、慶円上人の助力によって再興した。現在のお堂は、徳川時代の建築というから、その後もしばしば災害に見舞われたのであろう。土地の人々が「お地蔵さん」としか知らなかったのは、貧しい民衆によって、辛うじて支えられて来たことがわかる。

聖林寺HPでは、さらに、「江戸時代中期、大神神社の神宮寺の一つ、平等寺の僧侶・玄心上人が再興」とある。)

十一面観音は、秘仏だった。

その秘仏の禁を解き、国宝として保護される道筋を作ったのが、フェノロサ

明治の世の国宝制度創設の折、国宝に指定されている。

しかし、どういう経緯で、十一面観音は聖林寺に来たのか?

 

本堂から観音堂へと、階段をのぼり、渡り廊下を歩いて、移動する。

まじまじとカビの匂いのする堂内で十一面観音を見つめる。

凛々しい。流れる水の手が呼び出したようなたおやかなフォルム。

 

観音堂と本堂を結ぶ渡り廊下には、この寺の来し方を物語る木札がずらりと並ぶ。

天保天明、文化、文政、享和……。寺の護摩供の札。

 

   

 

 受付にもどってきて、女性に聞いたのである。

どういう経緯で十一面観音は、ここに?

女性がよどみなく答えた。

ここはかつて学びの寺、真言宗の律院として、学僧たちがここで学んでいたのです。

ここで学んだ学僧のひとりが、廃仏毀釈の折の大御輪寺の住職でした。

その住職が、兄弟子であった聖林寺の住職に、十一面観音を託しました。

と、よどみなく答えてくれた。

この受付の方、ただものではない気配が漂う。

しかも、この答えは、和辻哲郎が『古寺巡礼』に記したものとは違う。

 

ふたたび白洲正子聖林寺に十一面観音がきた経緯をこう書いている。

十一面観音は、三輪神社の神宮寺に祀ってあったのを、明治の世の廃仏毀釈の際に、ここに移されたと聞いている。住職は当時のことをよく覚えていられた。発見したのはフェノロサで、天平時代の名作が、神宮寺の縁の下にあったのを見て、先代の住職と相談の上、聖林寺に移すことにきめたという。その時住職は未だ小僧さんで(たしか十二歳と聞いた)、荷車の後押しをし、聖林寺の坂道を登るのに骨が折れたといわれた。

 

そうではありません。

和辻哲郎も、白洲正子も、白洲正子に経緯を語った当時の住職も間違っています。

と、きっぱり言うのは受付の女性だ。

いや、その女性に手渡された『月刊奈良』で、彼女がインタビューでそう語っていたのだ。

受付の女性は聖林寺のご住職だった。

 

 

 

十一面観音と前立の十一面観音、そして地蔵菩薩が、明治元年(一九六八年)三月の神仏分離令により、同年五月に三輪山大御輪寺から聖林寺に預けられる。

そして、大御輪寺の最後の住職から聖林寺に「大御輪寺の復活はないとみたのか、明治六年に覚書が渡されています」と。

そのおり、預かっていた地蔵菩薩も、学僧つながりで法隆寺塔頭、北室院に移される。

なるほどね、なるほどねぇ。学僧つながりねぇ。

もとは談山神社神仏分離以前は妙楽寺)の別院で天台宗だった聖林寺が、江戸期に三輪山平等寺の住職によって再興されてから、真言宗へと宗旨を変えて、大御輪寺とも学僧つながりの縁が生まれ、それが明治に至って三輪山の仏像救済へとつながってゆく。

なるほどねぇ。

縁の下の仏像を発見して聖林寺に運び込んだという、いかにも面白い話よりも説得力がある。

 

と、そんなあれこれを見聞きしながらも、実を言えば、一番面白かったのは、聖林寺から戻ってきて白洲正子『十一面観音巡礼』で知った、十一面観音それ自体の由来なのだった。

 

(十一面観音は)生れは十一荒神と呼ばれるバラモン教の山の神で、ひと度怒る時は、霹靂の矢をもって、人畜を殺害し、草木を滅ぼすという恐ろしい荒神であった。そういう威力を持つものを遠ざける為に、供養をおこなったのがはじまりで、次第に悪神は善神に転じて行った。しまいにはシバ神とも結びついて、多くの名称を得るに至ったが、十一面の上に、千眼を有し、二臂、四臂、八臂など、様々の形象で現わされた。日本古来の考え方からすれば、荒御霊を和御霊に変じたのが、十一面観音ということになり、(以下略)

 

つまりは、十一面観音を祀る心は、大物主を祀る心と同じであったということ、

水と火を祀る修験を仲立ちに。

 

なるほどね、なるほどねぇ、十一面観音がそこを去った時、三輪山はおそらく「水」を失ったのでしょうねぇ。

 

明治の世、近代のはじまりは、「水」を捨てるところから、はじまったのでしょうねぇ。

 

(水を失くした大物主は、いかなる心でこの百五十年を過してきたのだろう)