洗足池図書館に予約していた本を取りにゆくがてら、洗足池を散歩。鯉が水面すれすれにウワンウワンと口を丸く開いたり閉じたりは見慣れた光景だけれども、大人の親指くらいの大きさの、くらぐらした水の色とおんなじ色合いのものが2本、3本、水面からツンと突き出ているのが目に飛び込んで、よくよく見れば、亀が水中から頭だけ天に向かってぐいと突き出している。さらに、よ〜く見回せば、池の中に撃ち込まれている木の杭が岸辺に平行に1メートルおきくらいに並ぶ、その杭のてっぺんに亀がちょんと座って甲羅干し。あの杭でも、この杭でも、亀が陽光のポカポカを味わっている。
水から頭を出し、さらに体ごと水から這い出て、日の光を浴びる。生きるほうへ、生きるほうへ、と這い上がっていく亀の動きを心の中に描きながら、そのように亀を動かしていく亀の内面世界に思いを馳せ、それはどんな言葉なら語ることができるだろうと、ふと思う。安易な擬人法でもなく、紋切り型の「生の賛歌」みたいなものでもなく、本能とか条件反射というような言葉遣いでもなく……。
生きるということはどうしたって言葉を凌駕しているものだから、言葉に収まらないところにこそ、生きるということのひそかな息遣いが隠れていたりするものだから、そしてそれは、人間においても、物言わぬ生き物においても、同じことのようにも思えるから、私は洗足池に暮らす亀たちにもそのひそかな息遣いを感じて、それをぴたりと言い当てる言葉を、きりもなく探そうとする。
思うに、言葉というものは、探されているとき、まだ見つけられていないときが、嘘からもっとも遠いところにあるんじゃないかな。
「星塚敬愛園入園者五十年史 名もなき星たちよ」を読んでいる。患者自治会編で、語り手も患者のはずなのだが、どうしたことか国の声、職員の声、一般社会の声が、語り手のなかで入り乱れてまとまらない。おそらく語り手自身はそのことに気づいていない。「入り乱れてまとまらぬ声」を、「一つの確かな我が声」として、その声で「ひとつの歴史」を語ろうとしている。語られている具体的なエピソードよりも、入り乱れてまとまらぬ声に、その声を我が声と信じている語り手に、ハンセン病者が生きてきた過酷な現実がくっきりと浮かび上がる、そういう本。