『ショウコの微笑』(チェ・ウニョン CUON)  メモ

神保町でこの作家を見かけたことがある。

柔らかで穏やかで物静かな気配をまとった若い女性だった。

 

そんな気配の奥底に、

すべての生きづらい人々に寄り添うのだという、

すべての哀しみを分かち合うのだという、

希望の宿る場所は誰も知らないこの世の片隅なのだという、

自分自身の生きづらさを自分自身を否定する刃としてはならないのだという、

あんなにも強く揺るがぬ骨太な意思が秘められていたのだということを、

短編集『ショウコの微笑』を読んで痛切に感じた。

 

表題作「ショウコの微笑」は、ぎこちない小説だ。

合わせ鏡のようにして語られる、韓国人の語り手とその日本の友ショウコという「生きづらい私たち」と、そっと私たちに寄り添う人々の物語。
語り手が微笑するショウコに感じる違和感、それが意味することは、そう一筋縄で解釈できるものではない……。ここには語り手自身の自分への違和感もあるように思われる。

 

思うに、この小説のぎこちなさは、作家の企みが物語の中に溶け込み切れずに、時折その溶け切れなかった欠片がぎざぎざと目に刺さるからかもしれない。

同時に、その一方で、この小説の企みは、短編集に収められたその他の小説に見事にさまざまに変奏されて実現されている。

 

そこに現れるさりげなくも繊細な表現、そこに宿る眼差しのありかに、ハッとする。

 

たとえば、「オンニ、私の小さな、スネオンニ」では、戦争で孤児になったスネオンニ(語り手にとっては「おばさん」)と、スネオンニを働き手として迎えた家の娘だった語り手の母の、少女時代から晩年に至る、その関係の切なくもどうしようもない変遷と和解が、語られているのだが、

まだ少女の頃の母が、スネオンニが唯一母に語った幼い頃の故郷の思い出(死にゆく愛犬コムの話)を聞く場面で、このような描写が現れる。

コムの話を聞いている時、母はコムになったつもりでおばさんを見ていた。コム、ご飯食べなさい、そう言って泣きじゃくる姿を。コムの目を通して見ると、おばさんはこの世で誰よりも大切な人だった。母はその後も時々、死んだ犬の気持ちになっておばさんを見た。自らの意思とは関係なく全てを失い、それでもなお失うものが残っていたおばさんのことを。

 母はおばさんがいとおしかった。

 

 

あるいは、「ミカエラ」のこんな一節。

女は隣に座ってうとうとしている老女を見た。この老女はこれまで幾度、愛する人を失ってきたのだろう。女は年老いた人を見るたびに尊敬の念を抱いた。長く生きるということは、愛する人たちを見送った後も長い間、残されるということだから。そういうことを何度経験してもまた立ち上がり、ご飯を食べ、一人で歩んで行かねばならないということだから。

 

 

このような眼差しで語られる世界は、実のところはこの世に生きる者たちの多くが身を置く世界であり、自身のことを声高に語らぬ者たちの世界であり、陰に陽に口を塞がれて本当はそこにあるのに見えない領域に押しやられている世界でもある。

なにより、この世界を知ることなく、分かち合うことなくして、人の世の希望の絶望も語ることなどできはしない、そういう世界だ。

 

弱き者に寄り添うこと、それが憐れみや施しにならぬためには、弱き者を産み出す社会的、政治的構造があるのだという意識に裏打ちされた深い洞察も必要だろう。

それは、政治的になることを恐れて日本の小説がどんどん失っていった姿勢のようにも思う。

 

作家はあとがきにこう書いている。

「自分が自分であるという理由だけで自らを蔑み嫌う人たちの立場で、社会や人間を見つめる作家になりたい。その過程で私もまた、恐れることなく、ありのままの自分になれたらいいと思う」

 

今は、自分が自分であるという理由だけで自らを蔑み嫌い、そんな自分を安心させてくれる大きなものに「我を忘れてすがりつけ」という囁きに人々が踊らされる時代だ。そんな時代だからこそ、『ショウコの微笑』の作家チェ・ウニョンの小さいけれど揺るぎない声で語りだされる物語は、胸に沁みる。

それは、この時代を生き抜かねばならない私たちにとっては、直視したくはない私たちの現在と、眼差すべき明日を、小さな言葉で指し示す物語なのだとも思う。

 

最後に、大事なことをもう一つ。書き忘れるところだった。

チェ・ウニョンの作品には、忘れてはならない死者たちが宿っている。

言葉なく逝った死者たちの声がそこにはある。