他者のことば

昨日は、1日、映画ファン感謝デー、ということで、原稿行き詰まり打開(?)のために、『愛を読むひと』を渋谷で観てきた。ケイト・ウィンスレットがあんなに上手いとは思わなかった。
本を読むということ、本を聴くということ、声を行き交わすということ、愛を交わすということ、生きるということを考えた。
ケイト・ウィンスレット扮する元SSのハンナ・シュミットは裁判で何を裁かれたのだろうと考えた。
粗にして野であるが卑ではないハンナの不器用な生き方、死に方について考えた。
珍しく映画を観て涙した。

本日は終日原稿。なんとか4枚書き上げる。遅筆。

上野朱さんより、熊本日日新聞に5日掲載の『イリオモテ』書評が送られてくる。しみじみ嬉しく拝読する。

『大人にはわからない文学史』(高橋源一郎)の第7日目は面白かったな。同じ歴史、同じはじまりを生きる、同じ共同体のことば、他者の存在しない言葉があり、その一方で、これから共同体を形作っていくであろう、今は無所属のことばがあり、その無所属のことばは、所属する世界を持つことばから見るなら他者のことばなのである。それはまだ歴史を持たないことばなのである。とまあ、かいつまんでいうと高橋源一郎はそのようなことを言っている。
他者のことばか……。
理解されない消えてゆく他者のことばもあれば、共同体を形作り、歴史を積み重ねていく他者のことばもある。
そうか、他者のことばか……。