私たちの言葉は、まだその闇へ到達できておりません。
(『ははのくにとの幻想婚』所収「地の底のうたごえ」より)
性が単独な機能ではないのに、女の性は生誕を具象としてもち、男の性は生誕を抽象とします。困ります。なぜなら具象の力とはたいへんなもので、それに対等な力として対応しうる抽象は支配権力の観念くらいだと思われるからです。 (「根底的とはなにか」より)
★生誕という具象がある。その具象こそが「私」なのだとしたとき、森崎和江はこう言うのである。
この現実の現象である私は、個的歴史性や人類総体のそれや何や彼やの抽象を附属させていて、ただそれらは附属にかかわることだけにあけくれているようなものです。
★附属!!! 実のところは取るに足らぬ、附属!!
願わくば今日までの人類の歴史のすべてをかけるほどの時間をかけて、女である人の根底がことばや思弁にさらりと表れることをと思います。 (「根底的とはなにか」1970年 より)
★これは、なんとも恐ろしい言葉たち。
植民地生まれの私には自分のことばは標準語だけである。彼の土地でそれ以外の自国語を耳にしたことがなかった。ことばがそうであるように日常のあらゆることがらが伝統から切れていた。 (「私を迎えてくれた九州」1968年 より)
私は個別的な傾向性を問わぬ没個性的ににこやか集団を、はじめてみた。
どこへむかってもこの九州(そしてにほん)では、個人の属性だけが問われて、人間の核心部分での対応は避けられていたのだ。いや意識して避けられるのではなくて、そうした対応を人々は知らないようであった。
★森崎和江は、天草のうちの、代々差別されてきた島に渡り、その暮らしぶりのなかに小さな発見をする。(しかし、それは森崎にとって大切な発見でもある)
その島は差別ゆえに他所との通婚もできず、代々の血族結婚。
「そのおかげで島にはどろぼうもいないし、他人と自分をわけへだてしない」
「おくにはここにきわまっていた」「そこにはくらしだけがあった。生きるために必要な集団と労働と休養とが」
人びとの具体的な生活の場としての、生身の体がある、性愛があり、産みがあり、生まれるがあり、くらしがあり、労働があり、死がある、具体的で、「国家(遠方のおくに)」という観念や抽象とは無縁の最小の共同体としての「おくに」がある。
それはまっすぐに見ることのできるしろものだった。そのくらしと心情とは一体化していたから、個人のこころと集団のこころとは相似形であったから。ここには、(中略)どこか遠方のおくにに生活の思考をあずけっぱなしにして安堵しているような分裂した生はなかった。(中略)ここにあったのは生活と、その生活と分離しえぬ心情だけであった。歴史時間をこえていた。
★ここに至って、森崎は石牟礼と結び合うようである。
ここに至るまで森崎はどれだけ旅をしなければならなかったのか。
森崎は天草の漁民のかおを思い浮かべている。
そこには生活だけがある。
森崎は筑豊の坑夫を思い浮かべている。
労働にすべてをかける生活だけがそこにある。
森崎は知識人たちを思い浮かべている。
彼等もまた生活だけを持っている、思想を渡り歩きつつ。
(この「知識人」は御用知識人などではなく、闘う知識人を思っているのだろうか)
私が九州でさがしつづけていたもの――生活の理念およびその対象化に対する執念もなかった。けれども、私にはみえなかった生がここにあったのである。その生は、在ることが全部であって、そのよしあしは他の生態によって問わるべき筋あいのものではない、と私は思った。
★森崎はここからもう一度考える。
神経質に流動する歴史時間と、歴史時間とは無縁に受けつがれてきた生活の強みとを、
いかにして近づけるのか、
それなくしては文化など生まれぬのではないのかと。
★ここで私も考える。
国家と結びついた、(あるいは国家による呪縛としての)歴史時間とは異なる時間が近代以前は流れていたであろうことを。
産土の神とともにある歴史時間がそこにはあったであろうことが。
たった一つの歴史時間(国家公認の記憶)とは異なる、無数の産土の歴史時間(=記憶)があったであろうことを。
産土の神とは、その土地の記憶の結晶体でもあるがゆえに。