お昼御飯は海辺の絶景の海女食堂で

済州島
昨夜は中山間地域にある新豊里の儒学者の家に一泊。たまたま隣家で一周忌の法事をやっていた。了解を得て、法事を覗き見る。家族は淡い黄色の伝統的な衣を身につけている。(「陸地」では白い衣であったように思う。忠清南道大田では白かった)。祭壇に向かって家族が立ち、「アイゴー、アイゴー」とゆっくり唱えながら、波のように揺れている。男たちは杖をついている。あの歌うような「アイゴー」は何かと尋ねたら、「あのように唱えることで、泣いているということにする」という答。外では、村の人々が次々にやってきて、ご飯を食べている。私も食べた。海のもの、山のもの、豚肉、わかめスープ、キムチ…。おばさんたちが激しい済州島方言で話しかける。「ひとりで来たのか? ここで男を捕まえていけ!」。それをするには実力不足、年齢過多。

一夜明けて、市外バスで、サムダル里のトゥモアク두모악 キム・ヨンガプ 写真ギャラリーに向かう。新豊里からは市外バスで10分弱。雑誌『風の旅人』(http://www.kazetabi.com/)の次号で、写真家キム・ヨンガプの写真6枚と私の文章がコラボしていることから、キム・ヨンガプが亡くなったあとにギャラリーを引き継いで運営しているパク・フニル館長が、キム・ヨンガプが写真を撮るために日々通ったオルム오름(丘)を案内してくれた。済州島には漢拏山の火山活動によって三百を越える丘があるのだが、そのうちの一つ、ヨンヌニオルム용눈이오름に行った。
はぁー、この丘から周囲を見回すと、本当にぼこぼことあちこちに丘が見える、海が見える、漢拏山が見える、風が吹いている。パク館長が語る。「キム・ヨンガプ先生は自然ばかりを写したと言われていますが、それは人間が生きる場としての自然です。先生は済州島の風景を写したと言われますが、済州島を撮ったのでも、自然を撮ったのでもなく、『人間が生きるということ』を撮り続けた。『人間の生』、それを追求することなくして、どうして、芸術と言えますか?」

(キム・ヨンガプの写真と文章  http://d.hatena.ne.jp/omma/20100306

パク館長自身も写真家。40歳。
「陸地」からやってきたキム・ヨンガプがパク館長の家の一室を借りて暮らしたことが縁で、子どもの頃から家族同様に共に暮らしてきた。キム・ヨンガプも独学で写真家となった人だが、パク館長も、テクニカルなことは何ひとつ教えないキム・ヨンガプのもとで、試行錯誤を繰り返しつつ、独学で写真家になった。キム・ヨンガプはパク館長に、「なぜ、その風景を、そのように撮ったのか。説明せよ」と、ただそれだけを弟子たるパク館長に問うのみだったという。最初の頃、その問いに答えられなかったパク館長は、戦々恐々となって、撮影ができなくなったこともあるという。(なんとなく。直感的に。このアングルが気持ちよかったから。――そんな答では許してもらえなかった)。

他にも話はいろいろ。トラックでオルムをめぐりながら、写真について、表現について、文化について、幻想の島イオドについて、語り合った一日。

トゥモアクは、済州島オルレ(散策コース)の第一番コースに入っている。キム・ヨンガプの写真だけでなく、ミカン倉庫を活用して、さまざまなアーティストの活動の場を創りだしてもいる。一日百人が訪れるこの場所を、新しい文化が生まれ、動き始める拠点にしたいとパク館長は考えている。日本のアーティストとも関係を結びたいなぁ、と館長。

しかし、お昼ご飯のあわびのお粥、おいしかったなぁ…。館長に連れて行ってもらった、秘密のオルム、ここはぞくぞくしたなぁ。