済州大学の建築学の先生や、詩人の家の主宰の方の話を聞く。(一日目)、43平和記念公園、43の虐殺の村・北村里訪問(2日目)には参加せず、2日目午後の石文化公園からの合流です。


石文化公園に来たのは、四回目だと思う。
それは、この公園を創り出したひとりの男の狂気に引き寄せられてのこと。


男は、島の創世神ソルムンデハルマンと、その五百人の息子である五百将軍の神話を、自分自身の生の神話として、生きている。
男自身の母が「ソルムンデハルマン」であり、男自身が「五百将軍」であり、
創世神話そのもののように、男もまた、母の愛をむさぼり喰らうことで命を得た息子であり、
生かされた歓びと、生きていることの哀しみのなかにある一つの命であり、
世界と愛と命の、果てしない痛みで結ばれた円環の関係を知る命であり、
それは男自身よりも、こうして男のことを語りだしている私のほうが、既にそれをより切実に感じているようでもあり、、
なぜなら切実に感じることによって私はこうして語らされてしまうのだから、



男は、石文化公園をすみかに、島に押し寄せる破壊的・暴力的近代に抗う。

その暴力的近代のもっとも残酷な現われであった4・3によるあらゆる命への暴力に抗い、
もう一つの有無を言わさぬ破壊の現われである観光化、リゾート開発に抗い、
その抗いの砦として、武器として、母胎として、始原の「神話」を島の大地にいまいちど立ち上げる。


石文化公園とその名はいかにも当たりさわりなく、石以外はなにもなさそうな、観光ツアーのバスも通り過ぎて行ってしまいそうな、そんな場所に打ち砕くことのできない強烈な意思がある。

終わりをもたらすものどもへの怒り、そして、いまいいちどのはじまりへの挫けぬ祈り。


そうだ、文字通り、立ち上げるのだ。


男は、石たちの呼び声にこたえて、島じゅうからあつめた巨岩を今を生きる五百将軍としてこの地に立ち上げる。
男は、死者たちの呼び声にこたえて、島じゅうから集めてきた死者たちの友・童子石をこの地にぞくぞくと立ち上げる。
男は、島の溶岩の大地に根を張って、島とともに悠久の夢を見ていた木々の「根」の呼び声にこたえて、「根」を掘り出し、その夢の時間をこの地に立ち上げる。


男はかつて島のすべてを生み出したソルムンデハルマンの創造の「穴」を石文化公園に穿つ。
そこを島のよみがえりを産み落とす子宮とする。


私が石文化公園を訪れたのは、たぶんこれで四回目だ。
最初の時ほどの衝撃はない。
神話を生きる男が、「済州島のオルム(寄生火山)は360と言われているが、ハルラ山の子であるオルムは500はある、それこそがまさに五百将軍なのだとも言える」と言うその言葉を静かに聴いている。


目の前に、
死にゆく島、島に加えられた暴力ゆえの死者たちのために、
ふたたびのはじまりを呼び出さんとする「祈り」という名の一個の凄まじい狂気がある、
そのことのかけがえのなさに私は静かに打たれている。



はじまりは常に狂気とともにやってくるのだということ、それをこの場所と、この場所を創り出した男が、私に教える。


そして、この男の狂気もまた、生きられた文学/神話なのだと、私は思っている。
『火山島』を書きつづけた金石範と同じ匂いの狂気。


この狂気に触れずして、どうして、文学の秘密、人間の秘密、命の秘密、世界の秘密に触れえようか。



そんなことを思いつつ、一見のどかな、すすきが原とその向こう側のオルムに囲まれた石文化公園の夕暮れに静かに包まれてゆく。






童子石」 この子たちはワヤワヤといつも何事かざわめいている。