物語の時間

「ハル、ハル、ハル、ハル……」とモイセイ・モイセーイチがしゃべった。
「トゥ、トゥ、トゥ、トゥ……」と、ユダヤ女がそれに答えた。(チェーホフ『曠野』)。


シベリアへと旅したチェーホフは、また別の文章で、(確か郷里に送った手紙で)、シベリアの町の遊郭の日本の女の言葉には「ツ、ツ、ツ」という音がやたらと混じっているというようなことを書いている。

チェーホフの耳。

「エゴールシカは、二人の姿が見えなくなるのとともに、これまで味わったすべてのことが、煙のように、永遠に消え去ってしまったような気がした。彼はへなへなとベンチにくずおれ、たったいま始まったばかりの新しい、未知の生活を苦い涙で迎えた……。
 その生活はどんなものになるだろうか」(チェーホフ『曠野』結末部分)。


煙のように、流れるように、物語の時間は過ぎてゆき、永遠に消え去ってしまったような気がするのも、束の間のこと、また物語は新たな曠野を進みはじめている。