ハコちゃん

孫(と書くのには、まだいささか抵抗があるが)、ともかく孫に、一週間に一度の割で会いに行く、というか育児疲れの娘の顔を見に行く(特に何か手伝ってあげているわけでなく、アカンボとにらみ合う関係に割って入って風を吹き込む、気楽な第三者として)。

さて、昨日25日は、娘の証言によると、ちょうど一年前に私が娘に付き添って病院に行き、孫の到来を知った日だったのらしい。そのときには、豆粒でしかなかったのが、今はすっかりアカンボで、しかも私の目には頭も胸も尻も手足もゴンと一塊の箱型人間に見える。だから、近頃は「ハコちゃん」と呼んでいる。まだ言葉らしい言葉を話さぬハコちゃんと向き合って、じっと黙っているのも気詰まりだし、バーとかヒャ―とか言っていても間が持たない。だから、勝手に物語を作って語り始める。当然、主人公は「ハコちゃん」。

かつて、「世界は無数の島でできている」とうそぶいた私が、今は「世界は無数のハコでできている」とアカンボを前に呟いたりしている。当のハコちゃんからは、まだ全く相手にされていない。

連載原稿、第4回まで書き終わる。書いているうちに、だんだん、書くべきことが鮮明になってくる。切断と接続、見えないものに、見えないまま、ひそかな闘いを仕掛けること。

久しぶりに石垣島の水牛老師と電話で話した。今年度のハンセン病市民学会の沖縄交流集会のオプションとして老師が企画している「幻の癩村計画の地・西表島をゆく」ツアーも準備は着々と……。