「光」を「観る」。「光」とは何か。「それは日常の暮らしの風景とは異なった何か、それゆえに驚きにみちた、不思議に彩られた異文化」by赤坂憲雄
赤坂憲雄は「定住」に対して、「漂泊」とか「放浪」ではなく、「遊動」という言葉/概念を立てる。「遊動社会」の群のモラルは、「避ける、逃げる、ほどく、去る」。離合集散型社会で人間が大切なものを守るための生き方。
かつて平岡正明が書いていたな。戦いを仕掛けられたらどうするとロマに尋ねたら、ロマは一言こう答えたと。「逃げる」。
赤坂さん曰く、アイヌや沖縄は被差別部落を持たない社会であった。東北地方には中世以前には被差別部落は存在しなかった。それは近世になって西の大名が東北に移ってくるとともに、丸ごと制度的に移植された差別のシステムだったのではないか。東北には、身分や職業をもって、あるいは穢れといった観念によって、特定の人や家を差別するという精神の風土が希薄なのではないか。ピエール・クラストル「国家に抗する社会」を想起せよ。国家や王の出現に抗する社会は、穢れと差別をめぐるシステムを内発的には必要としない社会だった。それゆえ、被差別部落の問題は、西日本社会に固有の問題ともいえる。人が人を差別する制度というのは、まったくあたりまえのものではなく、自明のものでもない、歴史的にも文化的にも地域的にも限定されたものにすぎない。普遍的な根拠は見出されない。
『菅江真澄遊覧記』のなかの「わがこころ」という旅日記中の一文。「苅屋沢の村のなかを歩いていると、野辺を男が利鎌をふりかざして唄をしきりにうたいながら行った」。いつ、どこでも、人は歌うんだよねぇ。
「都人よ 来たってわれらに交われ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」 by宮沢賢治