第11章  「国家に抗する社会」   未開社会は国家なき社会である。 この一文ではじまる。


これを、未開から文明へという進化論的な発想でとらえれば、西欧近代の思考の枠のなかで、西欧近代の外の世界を説明することにしかならないだろう。
国家をもつ社会が文明の到達点か?  まさか。


「未だに野蛮なままにある人々をそうした場に留めているものは何か?」


必要がなかったからだ。


「人間が自分の必要を越えて労働するのは、強制力による以外にはない。ところがまさにこの強制力が、未開の世界には不在なのだ。この外在的力の不在こそ、未開社会の性質を規定するものなのだ。」

「未開社会は(中略)労働を拒否する社会」である。
「未開社会の人間にとっては、生産活動は必要の充足ということによって計られ、限定されている」


「本質的に平等社会である未開社会では、人間は自らの活動の主人、その活動による生産物の流通の主人なのだ」


「未開社会は、そこでは国家が不可能であるからこそ、国家なき社会なのだ」


そして、「権力なき首長」、「言葉の義務」を負う者としての首長、その本質としての権威と疎遠なひとつの制度、「権威なき首長制」をとおして、未開社会における権力のありよう(それがいかに拒否され、封じ込められているか)を考えることが、「国家なき社会」を考えることにつながる。


同時に、クラストルは、予言者の言葉に熱狂し、予言者の命令に従ったトゥピーグアラ社会のエピソードを語り、こう言う。

「予言者の語りの内には、多分権力の語りが胚胎しており、人々の欲求を代弁する先導者の高揚した巣があの中に、専制主の形象が沈黙のうちに書くっされているのかもしれない」


予言者の言葉は、権力なき首長の、「言葉の義務」として語り出される言葉とは明らかに異なる。



『国家に抗する社会』の締めくくりは、この言葉。

「予言者の言葉、この言葉の権力。そこには、まさに権力そのものの源泉、「言葉」のうちなる「国家」の始原があるのだろうか。それは人々の主人になる以前にまず魂の征服者となる予言者なのだろうか。 そうかもしれない。しかし、予言者の運動のこの限界的経験(中略)においてさえ、野蛮人はわれわれに、首長が首長たることを妨げるための持続的な試み、統一化のの拒否、「一」そして「国家」の祓い捨ての作業を示してみせているのだ。歴史をもつ人々の歴史は、階級闘争の歴史である、といわれる。少くともそれと同じ程度の真理として、歴史なき人々の歴史は、彼らの国家に抗する闘いの歴史だ、といえよう」


※ そして、未開社会における「歴史」。西欧近代の「歴史」の概念では捉えきれない、彼らの「歴史」実践というものがあるのだということを、『ラディカル・オーラル・ヒストリー」を参照しつつ、考えてみること。