かもめ組出帆!

10月もはや半ば。あわただしい。13日の土曜日は、わが家の小さい人の保育園の運動会で、ほぼ40年ぶりくらいに「玉入れ」なんぞをやらされて、そのやる気のなさを小さい人の母親や友人に指摘されたりもした。(へそ曲がりには、あのような団体競技はちょっとね…)。14日日曜日は日帰りで仙台。震災後の外国人住民(=外国人移住者)が抱える問題、その展望をテーマとするシンポジウムを覗いてきた。

その前の土日、7、8日は新潟。
新潟市主催の水と土の芸術祭のプログラムの一つ、「浪曲からパンソリへ、パンソリから浪曲へ」の裏方兼、公演での道案内役として参加。つまり、浪曲⇔パンソリの舞台転換の時間に、演者からそれぞれの芸にまつわる話を引き出して、観客のみなさんに、まさに「浪曲からパンソリへ、パンソリから浪曲へ」と案内してゆくのが、私の役割だった。
浪曲もパンソリも、受け継がれてきた古典がある。とはいえ、演者次第、聞き手次第、時と場所次第で、その演じようは変わってゆく。つまり演者の数だけ、演じる場の数だけ、演題はある。
7日の公演の舞台は、万代橋 旧水揚げ場を再活用した、海辺の半屋外の、かもめシアター。演者は海を背に演ずる。風が吹く。かもめが飛ぶ。さざなみが見える。観客は時とともに刻々と表情を変えてゆく風景に包まれながら、語りの芸を聞く。全身の感覚を開いて、語りの場に参加する。
浪曲玉川奈々福、パンソリの安聖民、なんだか、父親ちがいの生き別れた双子の姉妹のようで、その語りっぷり、歌いっぷりは、相響きあい、それぞれに実に見事!
パンソリ「水宮歌」。竜宮からスッポンが兎を捕まえにいく使命を帯びて、地上へと山へと旅に出る、その道中の描写のリズミカルで切れのよいこと、愉快なこと、ぐいぐいと引き込まれる、それは浪曲の道中描写とも相通ずる。愉快、痛快、観客のみなさん、身を乗り出して、一緒にリズムを取って、語りの旅芸人とともに旅をゆく風情。

さて、地上にたどりついたすっぽんがが、「ト先生(兎先生)」と呼びかけようとして、間違って「ホ先生(虎先生)」と呼びかけてしまうシーンがある。ちょうどそのエピソードに差し掛かったとき、演者の背後にのっそりと大きなトラネコが現れた。「えっ、呼んだ?」。そんな怪訝な表情で会場を覗き込み、海辺をのっそりと歩いて、やがて薄闇のなかに消えた。本当に虎(?)をも呼び出す声の力! 侮るなかれ、声!

新潟のこの公演を機縁に、浪曲・パンソリ演者それぞれのホームグラウンドである東京・大阪でも、公演をすることに。
この「浪曲⇔パンソリ」ユニットは、かもめシアターにちなんで、名づけて「かもめ組」! その誕生を目撃した新潟のみなさんは、名づけて「かもめ連」! 
語りの芸の、新たな旅のはじまりの予感!

浪曲からパンソリへ、パンソリから浪曲へ」東京公演は、2013年2月9日、昼の部は浅草木馬亭にて。夜の部は馬喰町art+eatにて。昼夜趣向を変えて! 詳細はまた後日。



さてさて、かもめシアターが設けられている万代橋旧水揚げ場は、水と土の芸術祭のメイン会場でもあって、旧水揚げ場の気配をそのまま生かした、かなり前衛的、実験的な展示が繰り広げられていた。
天井から地上に何本も吊り降ろされた太い縄。それが映りこんでいるのは、方形の廃油プール。
この廃油プールを覗き込むと、まるで地下世界がそこにあるような錯覚に襲われる。奥行き深く、立体的に、地上のものが廃油のうちに映り込むという不思議。(いや、科学的には不思議でもなんでもないのだろうけど)。
人間の気配がない。不安と予感をたたえた地下世界。妙な胸騒ぎの廃油プール。
その地下世界に魂を吸い込まれたような気がした。



翌8日日曜日は、やはり水と土の芸術祭の演目の一つである「神楽」を聞きに、高森神社へ。
新潟市の中心部から阿賀野川沿いに車を走らせて一時間ほど。
高森神社境内で繰り広げられる、様々な地域の神楽を観た。


神社前にはためく幟旗。
苦を鎮め、幸いを呼び込まんとする祈りが風にはたはたと。

旗頭の緑の植物を依り代に、神が舞い降りているのだろうなぁ。



獅子頭に頭をかじられると、3歳若返るのだそうだ。ということで、積極的に頭を差し出してみた。できれば3回くらい、計九歳分くらいかじられてみたかったが。

獅子頭の顔つきが、製作年代が新しいものほど可愛らしい。
神楽を演ずる若手の男性陣、時に「オトコ組!」と声を掛けたくなるような風情を漂わせている。日本のどこに行っても必ずある土着なヤンキーの趣。
ファンシーでヤンキーの一風景を伝統的な神楽の公演のなかに垣間見たような不思議な心持。