「歎異抄」後序にこうある。

聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の本願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ、と御述懐さふらひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に善悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。


早島鏡正による訳
「聖人がつねひごろ仰せられたことばに、「阿弥陀如来が五劫の長い間、みずから瞑想の座に坐って思案された本願を、よくよく考えてみると、それはただ親鸞一人を救うためであった。こう思えば、数知れぬ罪業をもったこの身であるのに、たすけ救おうと思いたたれた如来の本願は、なんともったいないことであろうか」と述懐なさったことを、いま改めて考えてみると、このおことばは、かの善導大師の「わたし自身、いま現在、罪業をかさねる輪廻の凡夫であり、しかも始めもわからぬ遠い過去世から、迷いの生存に浮きつ沈みつしつづけてきていて、さらに未来にむかって、かかる輪廻からのがれ出る機縁さえもない身である、と思い知るべきである」という金言と少しも相違するところがない。


歎異抄を書いた唯円にとっては、この文章のポイントは、「われら人間、みな迷いに迷いつづける輪廻の凡夫なのだ、思い知れ」と深い自戒とともに読者に伝えることにあるのだろう。


私にとってのポイントは、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」にある。

本願を語る弥陀の声が、ただ親鸞ひとりをめがけて届くという、その声のありよう。語りのありよう。
自分めがけてその声は発せられたのだという聞き手の確信。そのありよう。
深い信で語り手と聞き手が結んでゆく「語り」があり、「声」があるのだということ。
大声で、甘言で、聞き手の欲望を見透かした先回りの小賢しい言葉で、凡夫たちを数珠つなぎに縛り上げてゆくような「語り」や「声」ではなく。