なぜ「語り」なのか、ということを想いつつ。

保坂さんの本を読むほどに、私はなにかどこかにおそろしく駆り立てられる。

以下、『遠い触覚』より。

「(それら)歴史はフィクションだ。フィクションとして最高ランクのフィクションと言える、それらのフィクションを相対化するたえには、フィクションの起源を指し示すことができる本来のフィクションを作り出さなければならない」


「しかしところで、<私>とはかけがえがなく、すべての人は<私>というフィルターを通してしか見たり聞いたりすることができない、というのは本当か? <私>の目や耳がそれほど忠実に、つまりは透明に、見たり聞いたりすることができているのなら、芸術など人間は持たなかったのではないか。見えているものを見るため、聞こえているものを聞くために、芸術というフィクションを人間は作り出したのではないか。芸術はフィクションだが、<私>というフィルターを通してしか見たり聞いたりすることができないというのもまたフィクションで、そんなことはいわば信仰の一種で、それがいつはじまったのか、時代が確定できるほどに新しい思い込みなのではないか」


「現状優勢なフィクションは世界に輪郭を与え、世界と私たちの関係を安定させるベクトルとして機能する。しかし私たちが世界と結べる関係はそのつどそのつどの感触だけなのではないか。感触、触覚、あるいは予感。それらは固定せずたえず流動している。」


世界に輪郭を与えようとするのではなく、この流動につくこと。

感触も触覚も麻痺させ、予感を喪失させ、兆しを見失わせる、そういうものとしてのフィクションを突き抜けていくこと。


<私>に縛られたフィクションから抜け出して、<私>を揺さぶること、震わせること。


論理を踏み崩して、正気を踏み外して、境を踏み越えて、流れのなかに見え隠れする、そのつど新しい世界の不穏な唄を裏声で歌うこと。


語るということの<はじまり>の場に立ち返ること。