著者のあとがきから。

「なかでもわたしにとってもっとも興味深かったのは、日本に多大な影響を与えた朱子学とその基礎にある易の思想であった。朱子学を中心とする中国哲学から私が手に入れたひとつのアイデアは、人間をその内面から捉えるのではなく、身体の置かれた空間とのかかわりにおいて捉えるという発想であった。」


ここから、この著者の特徴的な用語である「身体の配置」という言葉が出てくる。

身体は空間のみならず、時間の中にも配置される。
「時間の中の身体」は、「空間の中の履歴」として蓄積されてゆく。
そして、「わたしを含む空間」もまた履歴を蓄積してゆく。


そういう概念と視点を得て、西行の旅に向き合ったとき、著者はこう言う。
西行の旅は、その旅の空間の履歴となり、そして、時を越えてその場所を訪れたわたしの履歴のなかに書き込まれてゆく。わたしは空間の履歴のなかで西行と出会うのである」


「身体の配置」という発想から、人間を取り巻く空間(=風景)が鮮やかに浮かび上がり、
その空間(=風景)に身を置く人間の上に流れる時間を想ったとき、その空間に地層のように書き込まれてきた記憶もまた「空間(=風景)の履歴」として具体的に浮かび上がってくる。


これを西行の和歌と思想を読み解く鍵とする。その試みがずいぶんと読んでいて面白かった。


なにより、西行の和歌に「神仏習合」の思想と、それに深く結びついた日本の文化の背景を見てゆく、その筋立てがひどく面白かった。


著者曰く、
西行が和歌によって詠ったこの国の空間は、明治維新神仏分離廃仏毀釈の嵐によって劇的に再編された。境内を共有し、僧侶が神官を兼務していた多くの寺院と神社は、神と仏が融合していた風景が残らないように徹底的に分離され、破壊されたのである。いまわたしたちが見ているのは、明治政府の近代化政策によってつくり出されたきわめて人為的な風景である」


そして最後にこの言葉を置く。

「わたしたちはいったいこの国の国土と風景に何をしてきたのか」

この問いに私は深く共感する。