『熊野と神楽』メモ

日本各地にある「神楽」は修験(=山伏)がその生成に深く関わっている。

芸能者としての修験を考える原点としての熊野、そして湯立神楽

 

<二つの視点>

① 熊野信仰の中核にある「湯」の信仰、それに基づく湯立、そこから展開した湯立神楽がある。

②熊野の起源と由来を説く縁起が各地に伝播、その中から神楽が生成。

 

 ※ 熊野信仰の伝播と展開には山岳信仰修験道の役割は極めて大きい。

 

◆ 小栗判官と湯の峯

紀伊の国熊野本宮の湯の峯へ登り、冥途黄泉より沸き出る薬湯の威徳にて、何なく本復仕り、有り難くも、熊野権現の御告げに任せ、かく行者姿となって遥々尋ね参って候

(説経祭文 小栗判官・照手の姫)

 

 

※湯の峯は、湯の峯脇の東光寺の薬師如来の「湯の胸」から噴き出すことに因んだ「ユノミネ」に由来するという。

 

※熊野(くまの)は熊野(ゆや/湯屋/斎屋)でもある。

 

◆ 熊野本宮例大祭 湯登神事 (4月13日~15日)

(13日)、

湯登は精進潔斎して山に登り、稚児は十二所権現のお使いとして拝所ごとに八撥の舞を奉納して神降ろしをする。湯は潔斎だけでなく、斎にも通じ、神降ろしも意味する。

 

(15日、大斎原/おおゆのはら にて)、

「御田祭」となり、大和舞・八撥の舞が奉納され、修験による柴燈護摩が執行される。

本文12pより)

 

※ 『熊野権現垂迹縁起』には、「大斎原」は「大湯原」とある。

   大斎原は、熊野権現出現の霊地。

 

道者は音無川を渡り、「濡藁沓の入堂」で潔斎して本宮に参詣した。潮垢離・水垢離を続け清浄さを得た道者は、湯立や神楽を奉納して顕現する神霊と直接交流し、託宣や夢告を受けた。熊野権現は死後の浄土往生を確証させるとともに、病気治しや健康祈願など現世利益を成就する現世と来世の二世の祈願に応えるとされた。

 

熊野信仰の中核に「湯」や「斎」の観念があり、清めや潔斎だけでなく、寄る・つく・いつく・など多義性を持つ。熊野ではユの持つ意味は大きかった。

 

日本各地の湯立湯立神楽は、熊野信仰の伝播に伴い、熊野の湯の多義性の思想を受容し、地域で独自の解釈を施し、修験と民衆の出会いの場を作り出していったと推定される。(本文13p)

 

 

◆各地の湯立と熊野

 

島根県邑智郡 大元神楽 

熊野なる 谷の清水を 御湯にたて 我立ち寄らば 氷とぞなる。[……]おもしろや 水は湯となる 熊野なる この湯の花を 神に手向くる  

(神楽冒頭に行われる「清湯立」で歌われる神歌)

 

 

高知県香美郡物部村  いざなぎ流

 (この地域は、鎌倉時代には熊野の荘園)

 

湯立において、当日の目的を太夫が述べる

熊野の新宮本宮の湯釜の上に祈り入り影向なされて、当年よとし又来るよとしとりて  

 

湯伏せ・火伏せにおける太夫による熊野権現勧請の言葉 

このや御湯の伏せ鎮めの前立て後立てには熊野の権現様を行い請じ参らする

 

湯神楽における太夫の唱文

大小神祇様をは、熊野新宮本宮の御湯の上へは送り迎えて伺い頼んで御座れば、湯釜の上より、役者の持ちたる三尺の玉の御幣、うづが折目をこれのりくらで、湯ボテ火ボテこれのりくらへ[……]

 

  ※湯ボテは湯をかきまわす棒、火ボテは火を整える棒

   湯ボテを釜の湯に浸し、神々、舞台、供物、氏子を浄める

 

これより下には地神荒神大土公荒神、湯釜の上を三処はいちめに清める者は、……

 

つまり、

「熊野の新宮本宮の御湯の上へ神々を送り迎え、湯ボテ火ボテにのり移らせて釜の湯を浸し、すべてを清めて後、下方の地神・荒神・大土公荒神を鎮める。湯立の湯は、熊野の湯と観念され、繰り返し湯を奉納すると神々の地位は上昇する。これをクラへと呼ぶ。荒ぶる土地の神霊である荒神・土公・地神・火神などは熊野の湯で制御可能となる。儀礼には修験系の行者や太夫、民間陰陽師の関与が推定される。」(本文16p)

 

 

◆奥三河 大神楽、その名残の「花祭」  

 

「修験や先達が伝えた熊野信仰は、奥三河で定着して土地の人々の願いに適用するかたちで新たな儀礼を創造した。花祭や大神楽で中心的な役割を演じる湯立も生と死の双方に関わり、湯は人々を再生させ浄化させるとともに、死者供養も意図した。現在でも、静岡県水窪や草木など天竜川の東方の山地に伝わる霜月神楽では、湯立は死者供養や死霊の鎮めを目的とする。そこには、仏法の力を身体に取り込んだ修験など仏教と民俗をつなぐ宗教的職能者が関与した。

 

熊野の湯立や神楽は、奥三河において近世初頭に「大神楽」として独自の発展を遂げたが、時代を下るに従い飢饉や疫病など村々の危機に行われる「共同体の再生」の儀礼に読み替えられ、その後は各地に展開して花祭りとして存続した」

 

 

※ 天竜中流域に大規模な湯立神楽が集中する理由は、熊野・伊勢・諏訪を結ぶ修行者と商人の道による交流が挙げられる。

 

※ 行者道は本宮山、春埜山、龍頭山、常光寺山の山住神社へと続いていた。

 

※  熊野と諏訪を往来する修験者が神楽をもたらし、在地の信仰と融合して共同体祭祀として定着したと推定される

 

 

◆その他、熊野との関連をいくつか

★ 秋田 保呂羽山波宇志別神社(横手市大森町) 霜月神楽

𠮷野金峯山 蔵王権現勧請

この地域では、かつては死者供養の湯立が行われ、「御霊舞」「後生神楽」と呼んだ。

 

★ 陸中 宮古市の神子舞と湯立託宣

熊野と深い関係のある黒森山(宮古市)の修験が関与

 

★ 信州遠山郷飯田市) 霜月祭

上町 湯立神楽は、熊野本宮の仙人が伝えたという伝承

和田 熊野の芸能者の来訪の伝承。神への奉納と仏の供養。

 

湯立に関する教義や儀礼は伊勢で整えられたとしても、実践としては熊野修験や御師などを通じて各地に伝わり、死者供養や逆修にも展開した。

 ※  逆修  仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。

 

 

◆切目王子と見目王子

 

これは修験の霊ともいわれる。熊野の王子信仰を読み替えて守護霊に転化したもの。

悪霊を「切る」。不可視のものを「見る」能力を持つ神霊。

花祭の最高神

 

これらを守護霊として背負うことで、悪霊に打ち勝ち、霊界・他界を見とおす「目」を持つことになる。→修験の霊能。

 

切目王子は、熊野九十九王子のひとつ。

 

◆修験の聖数 七十五 

 

「民間習俗では七十五日は重い精進潔斎の日数、産婦の七十五日の忌籠り、人の噂も七十五日までなど、完結した時間の単位である。峯入りの七十五日も同様である。一方、山中での七十五の数字は山に充満する霊の全体、一定の領域にいる諸霊のことであろう。山の霊は仏教に帰依して護法となりなり、神霊の眷属とされ、大峯山は「満山護法」で、要所は八大金剛童子となった。修験によって馴化された荒れすさぶ自然の力の形象化である」

 

大願成就したならば、七十五段の石段も、南蛮鉄にたたみます

瞽女唄「信徳丸」より)

 

と、本書では紹介しているが、長岡瞽女小林ハルの「信徳丸」では、五十五段となっている。

    

「修験は、自然の荒ぶる力を統御し、神霊の世界を論理と実践で構築し、その思想と実践は修験道の揺籃の地の熊野や𠮷野から各地に伝播し創造的に展開した」

 

 

◆ 牛玉(熊野の御符)=護法=金剛童子 であるということ