富雄川沿い 海瀧山王龍寺に十一面観音を観に行く。そして登美神社も。 (今日も走り書き)

2020年4月28日。

日々山伏が祈りを捧げに行く小さな滝と不動明王と十一面観音がいる王龍寺(黄檗宗)に、この日は私もついてゆく。

目的は、まずは十一面観音。そして、山伏が境内の中の小さな丘の上に見つけた「登美神社」。

 

 

 

 

王龍寺に行くには、富雄谷の谷底になる富雄川から生駒側へと坂をのぼってゆく、

途中、かつては辻々に立っていたであろうお地蔵さんが一か所に集められている祠がある。

ここだけでなく、他にもこのような祠はある。

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まずは王龍寺についての基本情報。寺のHPから。

 

王龍寺のあらまし

海瀧山王龍寺は、黄檗宗の寺院です。


黄檗宗は、江戸時代に、中国(明)の時代、隠元禅師によって日本につたわった、臨済宗のながれをくむ、禅宗のひとつです。京都府宇治市にある黄檗萬福寺大本山としております。


王龍寺は、伝説によれば、古く聖武天皇の勅願による古刹とされております。現在の黄檗宗の寺院として体裁がととのえられたのは、江戸時代になってからのことです。大和郡山の城主であった本多忠平公によって、元禄二年に堂宇が整えられました。現在の本堂は、その当時のものを残しております。
開山は、梅谷禅師です。梅谷禅師は、黄檗宗第二代木庵の弟子にあたります。


本尊は、石仏(磨崖仏)の十一面観音菩薩像です。つくられた年紀がわかる石仏として貴重なもので、南北朝建武三年)の作になります。これは、奈良市文化財に指定されています。
この他、奈良県の保護樹木・奈良市文化財(天然記念物)に指定されているヤマモモの古木(樹齢三百年以上)があります。

また、山門より本堂にいたる参道の周囲ならびに境内の山林は、奈良市文化財(天然記念物)に指定されています。現在まで残っている、市内での貴重な里山の自然林になります。

現在では、奈良市の西、富雄川の流れに位置する、自然環境を残した、古来の面影をとどめる古寺として、人々の信仰と憩いの場となっております。

 

公式HPには書かれていないが、

この寺はかつては、正月堂など「僧坊千軒」と云われるほど盛大だったが、後に衰退、戦国期に筒井氏の兵火で焼失したという。HPにあるように、江戸期に再び堂宇が整えられて復興。そのときに黄檗宗となった。

その広大だった境内の敷地のかなりの部分が、今は飛鳥カントリークラブ(昭和34年完成)というゴルフ場になっている。

その当時の経緯を記したゴルフ雑誌の記述によると、

昭和30年当時は、国道から歩いて農道を20分「まったくぞっとするような淋しい不便な土地でした」(初代河合利喜蔵社長の言葉)という状況、(王龍寺は)文字通りの隠れた名刹と化していた。」

 

その王龍寺へ。まずは本堂に行く。

 

この本堂は、崖に掘り込まれた十一面観音と不動明王を覆うようにして立てられているのだ。

 

 

 

お寺の方に鍵を開けていただいて、本堂に入る。祭壇の向こう側に、摩崖仏が見える。

 

 

 

しみじみとつくづくと見いった。素朴で、まことに優しげで、でも頑として譲れないものがある、というような表情をたたえた十一面観音。

不動明王も「おいら、不動だぜ!」と里の男の子がえへんと立っているような風情。(失礼をお許しあれ!)

 

 

この十一面観音と不動明王を岩に彫ったのは、きっと山伏に違いない、と私の旅の道連れの山伏が言う。

なるほど、十一面観音が彫られたのは、建武年間。南北朝の時代、吉野の修験が後醍醐天皇を支えて大活躍した頃のことだ。

不動明王は文明元年、応仁の乱の真っ最中。山と闇とけものみちに通じた山伏暗躍の時代。

 

本堂の裏は磐座。大きな岩の塊だ。この巨岩には水がしたたり落ちている。

しっとりと濡れている。水の流れを背後に背負って、本堂のなかに摩崖仏の十一面観音がいる。この磐座と堂内の岩はきっとつながっている。

 

巨岩の脇を小さな小川が流れ落ちてくる。

小川の前には、苔むした石。かろうじて「龍」と「大神」の字が読める。

龍神が祀られている。

この山の水神である「龍神」は、おそらく、水の神・十一面観音と同体なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

この水のさらに流れ落ちていくところ、本堂正面の階段を下りて行くと、小さな水行の場があり、そこに不動明王が立っている。

こちらも、えへん、おいら、不動明王。という顔つき。

富雄の谷の、素朴な里の、友達にもなれそうな、不動明王

 

 

 

 

この不動明王の行場と参道を挟んで向かい側の丘の上に、今はすっかり打ち捨てられているように見える「登美神社」がある。

すっかり存在感を失くしていたこの祠を見つけたのは、毎日この寺のささやかな修行場へとやってくる山伏だ。

 

祠には「鳥見大明神」とある。

 

 

この鳥見大明神を祀る祠は、『十一面観音巡礼』にはこう記されている。

 

お堂の手前の草深い小道を、右へ入ったところに「登美神社」がある。茅葺の小さな祠にすぎないが、磐境(いわさか)の大きさといい、お寺のたたずまいといい、登美一族の発祥の地は、ここに違いないと私は思った。おまいりする人は今でも

多いらしく、「草を刈らなくてはならないのですが……」と堂守のお婆さんはいっていた。

 

これは昭和の末の頃の話で、もう45年ほども前の話になる。

いつ頃から顧みられなくなったのかわからないが、この祠へとのぼってゆく小道は倒木で遮られている。

この土地(海龍山)の神、 鳥見大明神を祀るこの祠は、王龍寺の鎮守の社であったのだろうか、

 

十一面観音、不動明王龍神、行場と、修験の山であったのだろう痕跡が王龍寺には色濃く残っているが、この山の神たる鳥見明神の影は、ひどく薄い。それがなんだかとても寂しい。

 

霊山寺、これから再訪しようと思っている長弓寺、王龍寺とは富雄川を挟んで向かい側にある杵築神社と、どの寺社も修験の匂いを残している。

 

王龍寺から富雄川のほうに降りてくると、ちょうどそのあたりが湯屋谷なのだ。

つまり、熊野谷。

霊山寺には湯屋川が流れ、里人も体を癒す薬湯の湯屋が遥かな昔からあった。思えば、富雄川それ自体が湯屋川だと言ってもいいのかもしれない)

 

不動明王役行者がこの谷間に生きる人々の暮らしのなかに息づいていた頃を思う。

十一面観音を本尊とし、秘仏とする寺が川沿いに並び、人々が祈りを捧げていた風景を想い描く。

 

そもそも、杵築神社も、長弓寺も強力な疫病神たる牛頭天王を祀っていたのだ。霊山寺牛頭天王本地仏である薬師如来

 

登美の小川、富雄川、富雄谷、そこに暮らした民の生き難さと、生きてゆくための必死の祈りを想う。

鳥見明神に祈る者が消えていったことの幸不幸を想う。

 

富雄川沿いも、今では、白洲正子が歩いたころの草深い田園風景ではなくなり、まだ田畑も残ってはいるが、現代的な家々やマンションも建ち、道沿いに大型スーパー、ドラッグストア、病院、おしゃれなベーカリーにカフェ、ホームセンター、スターバックス、郊外型レストランも点々と並ぶ、近代的な風景。

 

忘れられた鳥見明神に、富雄の谷間の近代の幸不幸を想う。

 

明日は長弓寺に行く。

今年のゴールデンウィークは外出自粛のコロナ世界。私は神と仏だけに会いに行く。

これが私のコロナの日々。

祈りの日々。