図書館もずっと休館で、大変困っていたのだった。
予約していたのは、『近畿霊山と修験道』(五來重編 名著出版)
他に予約している者もいないというのに、コロナのせいで1カ月近く待たされた。
既得権益層の経済活動は最大限守るが、本一冊も自由に借りれぬ状態を良しとする社会の貧しさ。この間、図書館の閉鎖で、この社会ではどれだけ知的活動が停滞したことだろうか。コロナに乗じた「華氏451」状態をふと想像した。コロナに乗じた火事場泥棒、火付け泥棒が堂々と社会の中枢でふんぞり返っている国だからね、ここは。
さて、『近畿霊山と修験道』の話だ。
五来先生はまずは総説で「大和」の「神奈備」について語る。
「独立した山岳信仰は、その麓に生活する人々の神奈備信仰として成立するものであった」のであり、「山岳信仰の発生を、麓の民の祖霊のとどまる神奈備の御室とする説からいえば、吉野金峯山そのものが、吉野川中流の国栖、菜摘、宮滝の神奈備であり、愛染や喜佐谷や石蔵や鳥栖の修験集団がまもったことはあきらかであろう」と。
そして、「神奈備信仰の代表的なものは大和の三輪山であるが、これは山麓の三輪氏(大神氏)の祖霊のとどまる山であった」のであり、「この神奈備の御室をまもったのは神宮寺(大神寺、三輪寺、大御輪寺)の修験であり、平等寺の山伏であった」
五来先生によれば、大和三山もまた神奈備であったが、そこでは御室を守る宗教者が修験化しなかっただけだという。
「大和平野周辺には、二上山、生駒山、信貴山、松尾山、菩提山、内山などに修験信仰があったことはいろいろの点からあきらかである」
そして、私にとって重要なのは、次の記述だ。
以上のように大和は低い山の神奈備が多く、これをまもる修験が寺をたてて山麓に住んだので、鎌倉時代の当山派三十六山といわれるものは、大部分が大和に集中していた。これを『踏雲録事」で見ると、
和州金剛山(葛城山) 同安倍(安倍寺) 同三輪(三輪山大御輪寺) 同菩提山(正暦寺) 同鳴川(生駒山鳴川千光寺) 同桃尾(龍福寺) 同信貴(信貴山朝護孫子寺) 山城伏見、和州高天(葛城山高天寺) 同茅原(吉祥草寺) 同松尾(松尾寺) 同矢田(金剛山寺) 和州霊山寺(鳥見霊山寺) 和州法隆寺、同中の川(中川寺成身院) 同西小田原(浄瑠璃寺) 江州飯道寺(岩本坊、梅本坊) 勢州世儀寺、紀州高野(行人方) 紀州根来寺西、同根来寺東、同粉河寺、和州超昇寺、泉州槇尾(槇尾山施福寺) 泉州神尾(神於寺) 同高蔵(高倉寺) 同和田(不詳) 同中川牛滝(牛滝山大威徳寺) 摂州丹生寺(丹生山) 城州海重山(海住山寺) 和州多武峰(妙楽寺) 同吉野桜本(桜本坊) 同内山(永久寺) 同初瀬(豊山長谷寺)
<矢田金剛山寺 ― 鳥見霊山寺 ― 法隆寺> このラインはかつての登美の小河、現在の富雄川の水脈に沿った「十一面観音」ライン。(白洲正子『十一面観音巡礼』による)
<三輪山大御輪寺 ― 豊山長谷寺> は、東大寺を結び目として、南は伊勢・熊野、北は若狭とつながる水脈、ここもまた「十一面観音」ライン。(安藤礼二『列島祝祭論』による)
江戸時代には正大先達は十二箇院に減少し、大和は八箇院になった。すなわち鳥見霊山寺・吉野桜本坊・松尾寺中福寿院・内山永久寺・菩提山正暦寺・三輪山平等寺・宝宥山高天山・正暦寺中宝蔵院であった。
鳥見霊山寺。前にも書いたが、十一面観音を訪ねる旅をしていた白洲正子によって、あまりに世俗的だと忌避された寺だ。
この寺に湯屋(熊野)川が流れ、役行者が祀られ、不動明王が祀られている滝がある。
この寺があるから、富雄川の流れる谷は「湯屋谷(ゆやんたん)」と呼ばれたのではないかと思われる、それくらい富雄一帯は今でも修験の跡がくっきりと、(その分、廃仏毀釈の跡もくっきりと)残る土地だ。
三輪山の修験の論文を読もうと思って借りた本であるが、鳥見霊山寺が大和の修験の八大根拠地の一つだったことがわかったのが、大きな収穫だった。
そろそろ、登美の小河ライン、矢田の金剛山寺、そして柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺に行かねばなるまい。
ああ、しかし、法隆寺も鎌倉時代には大和の修験の根拠地の一つだったとは……。困ったことに、コロナのためにいまは法隆寺は拝観休止中。
さて、三輪山の修験のことも忘れてはいけない。今ではすっかり影を潜めている「修験」の話だ。それを知りたくて、図書館から本を借りたのだった。
五来重論文によれば、「奈良時代前後の神宮寺として文献にのこるのは気比神宮寺、伊勢渡会郡太神宮寺、宇佐八幡比咩神宮寺、日光二荒山神宮寺(中禅寺)、若狭比咩神願寺、鹿島神宮寺、箱根山神宮寺、伊勢渡会神宮寺などが知られる。(中略)ほとんど山岳修行者の開基であることは注意を要する」とある。
このような点から見れば、三輪山の大神寺(大御輪寺)をひらいたのも、山岳修行者であったとかんがえてよいであろう。したがって多くの神宮寺がその山の山神の本地仏をまつって、修行者の苦行道場としたように、ここでは十一面観音を本尊とした。(中略)この十一面観音は東大寺二月堂本尊であったり、長谷寺の本尊であったり、白山大御前峰の本地仏であったりするように、山神の本地たるにふさわしい雑密信仰の仏である。しかも長谷観音のように地獄救済をふくむ厄除本尊であるから、三輪山の他界信仰にふさわしい。
この十一面観音が、明治の廃仏毀釈を逃れて、三輪山から桜井の聖林寺に移されたのであった。
五来重の考えるところによれば、「奈良時代にいまは名のつたわらぬ三輪山の山岳修行者(優婆塞または禅師)が、ここに神宮寺(大神寺)をつくったときは、大物主神の荒魂を十一面観音としてまつったもの」なのだ。
前にも書いたことだが、つまりは、神仏分離、廃仏毀釈は、山神の本地仏を(もしかしたら山神もまるごと)山から追い払ったというわけだ。神殺し。
五来重は、三輪山の修験について、論文をこう締めくくっている。
三輪山は大和の顕著な神奈備信仰から山岳信仰がおこり、大神神社としては大和の一之宮の崇敬をうけながら、これを管理したのは、神宮寺としての大御輪寺と平等寺で、山伏支配の伝統を明治維新までもちつづけた。そのあいだ神社と仏寺を調和させるためには、三輪流神道という両部神道も成立したが、これもまた山岳宗教、あるいは、修験道の所であった。