〈番外編〉 京都の牛頭天王社の痕跡を歩く。

2020年5月8日(月)

午前9時半より京都・神宮丸太駅から歩き始める。

『増補 陰陽道の神々』(斎藤英喜著 思文閣出版)に収められているコラム「いまも京都に棲息する牛頭天王」が本日のナビ。

 

今では牛頭天王を祭神としている神社はないのだが、岡崎東天王町、岡崎西天王町という町名に残っているように、岡崎神社(東天王)、須賀神社(西天王:かつての社殿は現在の平安神宮蒼龍桜付近、跡地に西天王塚が残っている)は、かつては牛頭天王を祀っていたのであり、岡崎通りを南下していき、粟田口にある粟田神社もまた牛頭天王、そこからさらに神宮道を下って円山公園を抜ければ、やはりかつては牛頭天王を祀っていた八坂神社となる。そして、粟田神社は、八坂神社の分社ともいえる社だ。明治以前、神仏分離以前、八坂神社と改称を強いられることになる以前の「祇園感神院」の、新宮が粟田神社になる。いまも粟田神社の鳥居の変額には、「感神院新宮」とある。

 

今ではどの神社でも牛頭天王スサノオに置き換えられている。もちろん、明治の神仏分離によるものだ。

 

斎藤英喜さんのコラムによれば、

安永9年(1780)刊行の「都名所図会」を眺めると、けっこうあちこちに「牛頭天王」にまつわる神社が出てくる。たとえば、「牛王地社」。下河原の南にあり、現在地は不明。「播州広峯より初めて鎮座し給ふ地なり」とある。また一乗寺山下黒松の東にある「天王社」。舞楽寺の社となっている。「北の天王社」ともいう。あるいは京田辺市にある「牛頭天王社」普賢寺谷の山の上に鎮座。現在も「天王」の地名が残っている。さらに『拾遺都名所図会』にも、「烏丸通高辻の北、古祇園の御旅所なりという「牛頭天王社」がある。現在は烏丸仏光寺下ルに「八坂神社大政所御旅所址」の碑がある。また下鳥羽の東、伏見区下鳥羽にある「田中天王社」。八坂神社から勧請されたという。その他、中京区壬生椰ノ宮町の「梛神社」は、広峯から牛頭天王を勧請したという「元祇園社」と呼ばれている。

 

このような基本的な知識を頭に入れて、歩き始める。

歩かなくちゃわからないことはたくさんあるからね。

 

f:id:omma:20200609220616p:plain

 

神宮丸太駅を降りて、東へと歩き出すと、道の向こうにやたらと立看の並ぶ建物が見える。京都、立看と言えば、京大ではないか。と思っていたら、やはり「京大熊野寮」とある。

うん? 熊野寮? ここは熊野か? 

と、いぶかしく思いつつ歩いて行ったら、目の前に熊野神社が現れたのだった。

(横浜に生まれ育った私は、1年前に移り住んだばかりの関西の地理についてはほぼ白紙状態。京都も修学旅行のほかは、所用でピンポイントで来たことがあるくらい。まだまだ土地勘はない。)

f:id:omma:20200612205457p:plain

f:id:omma:20200612205614p:plain

 

f:id:omma:20200612205708p:plain  f:id:omma:20200612205733p:plain


熊野とくれば、八咫烏でしょう。境内には摂社もいくつか。

f:id:omma:20200612210416p:plain

●神倉神は、熊野速玉大社の摂社である神倉神社の祭神。新宮市内の神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)の山上の岩がご神体。平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになったという。

●須賀大神は、おそらく、出雲の須賀神社の祭神ではないか。素戔嗚命のことを言う。

●そして春日大神は、春日大社からの勧請だろう。

 

こういうことを書いていると神社マニアかなにかと誤解されそうだが、いま奈良や京都で寺社を訪ね歩いているのは、明治の「カミ殺し」の跡をたどる旅なのである。

f:id:omma:20200612214023p:plain

歩いて初めてわかったこと。なるほど、ここは聖護院通り、修験道本山派の総本山聖護院がある。熊野神社は聖護院の森の鎮守として、平安時代に建立、のち焼失し、1666年の再建だという。

つまり、知らずに足を踏み入れたけれど、このあたり一帯は、明治以前は修験の二大勢力の一つ本山派(天台宗系。 ちなみに、もう一つは真言宗系の当山派で総本山は伏見の三宝醍醐寺)の修験の本拠地であったのであり、通りに聖護院八つ橋総本店を見つけて、おおおお、あの裁判で創業年代がでたらめと言われている聖護院八つ橋!!とか、喜んでいる場合ではなかったのだった。

 

そして、修験の盛んな地に、牛頭天王社も軒を並べているという、んんん、この風景はどこかで見たことがある……。そう、奈良・富雄川沿いの、かつての修験の寺と牛頭天王社が軒を並べる風景。

 

こちら京都は町なかで本山派の町、(地図でだけ見ていた時には、こんなにいわゆる町だとは思っていなかった)、

あちら富雄川沿いは田んぼやら畑が広がる田園風景で(おそらく)当山派、真言宗霊山寺は大峯修験の先達寺で、「湯屋谷 ゆやんたん」という土地での富雄の谷の呼び名はたぶん霊山寺内を流れる「湯屋川」に由来するのではないか。

いずれにせよ、修験と牛頭天王のつながりを、はからずも京都聖護院あたりでつくづく考えたのだった。

 

京都のあの一帯の牛頭天王はもちろん祇園社つながりでしょう。

奈良のあの一帯の牛頭天王は? と考えた。

 

「増補 陰陽道の神々』に、奈良には南都興福寺の大乗院門跡に仕えた賀茂家の庶流の幸徳井(かでい)一族がいた。

ちなみに、賀茂氏とその嫡流末裔勘解由小路家が暦道の、安倍氏とその嫡流末裔土御門家が天文道を宗家だった。江戸時代には賀茂家のほうは衰退していたという。

また、土御門家のその独自の神道教義の中には仏教系の牛頭天王は登場しない。

 

(幸徳井一族も)「大乗院門跡」という権門に仕える上級陰陽師であるが、さらに、中世後期の大和の地には十座(興福寺)・五箇所(大乗院)と呼ばれた「声聞師」(唱聞師)集団がいる。(尾崎安啓「中世大和における声聞師」)。彼らと幸徳井家はけっして支配・被支配の関係を結んでいなかったようだが(林淳『近世陰陽道の研究』)、奈良の地には、宮廷社会を離れた賀茂家=暦家の流れが「陰陽師」として活動していたことはたしかなようだ。ちなみに、近世奈良には、近年有名になった「陰陽(いんぎょう)町」という暦陰陽師たちが居住する地域があった。(木場明志『近世土御門の陰陽師支配と配下陰陽師』)

 

(中略)

 

南都の民間陰陽師は「賀茂」の末裔とする伝承を多く伝えているという。

 

(中略)

 

さらに奈良の地には、牛頭天王信仰との接点もあった。奈良春日大社に所蔵される「牛頭天王曼荼羅衝立」である。この曼荼羅衝立はもともと春日社の摂社水谷社の社殿に祭られていたという。「牛頭天王信仰」を通して、南都と祇園との間に深い関係があったことが知られよう。

 

 

さて、奈良への寄り道はここまで。京都に戻る。

 

f:id:omma:20200612235653p:plain 


 f:id:omma:20200613002948p:plain

石がご神体の小さな祠が並ぶ御辰稲荷を通り過ぎたところの角を左に入って、

まっすぐ行けば、真宗の寺のある四つ角。

「もうじき皆ひとりで死にますえ」と含蓄のあるお言葉を眺めつつ、左に曲がる。

f:id:omma:20200613003520p:plain

 

左に曲がれば、もうすぐそこに須賀神社。かつての西天王社となる。ただし現在地に移ったのは1924年だし、ここには牛頭天王の痕跡もない。

 

f:id:omma:20200613003754p:plain f:id:omma:20200613003929p:plain

f:id:omma:20200613004014p:plain f:id:omma:20200613005712p:plain

 

須賀神社の向かいには、積善院準提堂。聖護院門跡の門跡を代行することもあったという寺。今の須賀神社より、こちらに興味を惹かれて、境内に入る。


 

f:id:omma:20200613004428p:plain  

f:id:omma:20200613004202p:plain f:id:omma:20200613005550p:plain

f:id:omma:20200613004908p:plain f:id:omma:20200613004952p:plain

 

ただでさえ恐ろしい呪いの崇徳院が、なまって「ひとくい」になるという。

すどくいん、すどくい、ひとくい  日本語は「ん」の音がよく落ちるんだよね……。

ここから進路を東に取り、錦林小学校の脇をとおり、東天王社(現在の岡崎神社)を目指す。

「 錦林」は聖護院の森の別称。

 

東に5分も歩けば、岡崎神社。

祭神は素戔嗚、櫛稲田、そしてその子どもの神々。

牛頭天王は素戔嗚に置き換えられて消されている。神社由緒書にも「東天王」と称されたとあるが、なぜ「天王」なのかの言及はなし。

広峯から勧請されたカミの名前もなし。

今は、牛頭より、うさぎ。

f:id:omma:20200614100339p:plain

f:id:omma:20200614100416p:plain

 

f:id:omma:20200614100521p:plain

f:id:omma:20200614100613p:plain

f:id:omma:20200614100647p:plain

 

 

ここから南に下り、粟田神社を目指す。暑い。

神宮丸太からぶらぶら歩き出して、すでに1時間半ほどが過ぎている。

通り道の家の軒先に八坂神社の山鉾の、厄除けの「蘇民将来」のちまき

 f:id:omma:20200614101732p:plain f:id:omma:20200614101524p:plain

 

f:id:omma:20200614101910p:plain

 

粟田神社着。

扁額に「感神院新宮」とある。「祇園社」の新宮の意。

ここは牛頭天王を祀る「粟田天王社」であったと由緒書に明記している。

f:id:omma:20200614101955p:plain

f:id:omma:20200614102208p:plain

 

入口に鍛冶神社。2.5次元の「刀剣乱舞」の人気のすさまじさをここであらためて知る。

 

f:id:omma:20200614102452p:plain f:id:omma:20200614102737p:plain

 

 

粟田神社境内。 京都市内一望。赤い鳥居は平安神宮の鳥居。

f:id:omma:20200614103024p:plain

 

 

 

f:id:omma:20200614103158p:plain



さあ、終着地点、八坂神社を目指して歩き出す。

f:id:omma:20200614103449p:plain 

 

青蓮院を通り、知恩院を通り過ぎ、円山公園を通り抜け、八坂神社に至る。

 

f:id:omma:20200614103612p:plain  f:id:omma:20200614103650p:plain

f:id:omma:20200614103846p:plain 

 

円山公園から、いったん八坂神社を通り抜けて、祇園の町なかに出て、昼食。

ふたたび八坂神社。

八坂神社正面。

f:id:omma:20200614103923p:plain

 

f:id:omma:20200614104120p:plain

 

 

f:id:omma:20200614132230p:plain

門をくぐって入ると、ほぼ正面に疫神社。牛頭天王の名残の社。

祭神 蘇民将来

ここで「ハヤスサノオ」と書かれているカミが「牛頭天王」。

この由緒書に書かれているものは、ここは元祇園社だというのに『祇園牛頭天王御縁起』とは異なり、備後国「疫隈の国社」(江熊祇園社)ゆかりの縁起譚に近い。

 

ともかくも、ここでは牛頭天王が消えて、牛頭天王をもてなしたことで救われた蘇民将来がカミになっているというわけだ。

蘇民将来の一族と名乗れば、牛頭天王が救ってくれる、

だから蘇民将来子孫と書かれたちまきがお守りになる、

お守りに名を書かれている蘇民将来がカミになる。

つまり、カミを歓待した者もまた、カミに。

f:id:omma:20200614104346p:plain

f:id:omma:20200614132255p:plain

 

f:id:omma:20200614132532p:plain

f:id:omma:20200614132825p:plain

本殿。いまや本格的なコロナの世ですから、本殿の鈴を鳴らすための鈴緒をはずされて、お賽銭箱の上に手をかざすとセンサーが感知して鈴の音を鳴らす仕掛けになっておりました。電子音では空気も震えないね。

 

f:id:omma:20200614132855p:plain

八坂神社を出て河原町のほうへ。鴨川べりを少し歩く。

 

f:id:omma:20200614132932p:plain

 

さて、『祇園牛頭天王御縁起』に書かれている、蘇民将来の兄の巨端将来の屋敷を襲う牛頭天王の眷属の話はなかなかに恐ろしいものです。

山本ひろこ『異神 下』(ちくま学芸文庫)には以下のように書かれている。

天王は眷属の中の「見目(みるめ)・嗅鼻(かぐはな)」に、巨端の家を偵察してくるように命じた。二人が行ってみると、巨端は占い師に、最近、怪異な出来事が起こるわけを占わせていた。占いの結果は「三日の内に大凶となろう。これは牛頭天王の罰である」と出た。驚いた巨端は「どんな祈禱をすれば逃れられるか」と尋ねると、「たとえ三伏祭をしても天王の罰を免れることは不可能だろう」と占い師は答えた。巨端は占い師の袂を摑んで懇願した。すると占い師は「千人の法師を集め、大般若経を七日七夜読誦させれば、もしかしたら逃れられるかもしれない」と答えた。

 

見目・嗅鼻は走り帰り、以上のことを天王に報告した。天王は「八万四千の眷属」に対し、巨端の家に攻め込み、「末代の煩い」である「邪見・放逸の徒」を一人残らず滅ぼすよう命じた。眷属軍が巨端の家に到着してみると、千人の法師が並んで大般若経を読誦していた。その六百巻の経は、たちまちに四十余丈・六重の築地となり、経の函は天蓋となって侵入を阻んだ。

 

報告を聞いた天王は次のように示唆した。「よくよく観察してみろよ。千人の中に片目に疵のある法師がいる。その者は酒飯に満腹し、酔いしれて寝ており経を読んではいない。時々ははっと目を覚ますが、違う箇所の文字を読んでしまうはずである。そこを突破口に乱入し、巨端と一族郎党をことごとく蹴殺せよ」

 

それを聞いた蘇民将来が、「巨端の家には、私の娘(乙姫)がいる。娘だけは助けてほしい」と頼んだ。すると天王は、「では、”茅の輪”を作って赤い絹に包み、”蘇民将来の子孫”と書いた札を娘の帯に付けさせよ。そうすれば災難から免れるだろう」と指示した。

ふたたび巨端の家に押し寄せた眷属軍が「巡見」してみると、天王の言葉通りだったので、「謂無き字を読む法師」の所を侵入口として突入、巨端一族を殲滅した。

 

 

これは文字で武装された世界を、モノノケどもがいかにして突き崩すかという話でもありますね。

そもそも八万四千の眷属軍の、この「八万四千」という数字は、人間の体の毛穴の数なんですね。

 

東の牛頭天王社の雄、津島社の神官によれば、

「属神ハ是レ一歳三百六十日一時一刻ノ主神ナリ、人身ニモ亦毛孔之主神也。半放タレ半留マル者ハ、縦ヘバ秋冬既ニ往クト雖モ、春夏ノ気此ニ留マル。又一年生ジテ毛孔ノ堅(ヨダ)ツト、猶(ナオ)偏(ヒトヘニ)身ノ乱雑 之ニ与カラ不ルガ猶(ゴト)ク然リ矣」(山本ひろ子『異神』より)

 

「毛孔の主神」たる(牛頭天王の)眷属神は、「一時一刻」という微細な時間の襞に棲みついて、季節をも支配しているのだった。「隔年」ごとに半数ずつ放たれるのは、「行疫」のための周到なエネルギー交換とでもいえようか。放出される「疫気」と滞留する「疫気」の交替。その不屈の生命活動を保証するものこそ、膨大なる眷属たちの存在にほかならない。

 

わが身の八万四千の毛孔に宿るカミたちをぞわぞわと想像すること。