またまた閑話休題  いかがわしい山伏がまっとうな山伏であるということ。

山伏は権威を認めない。ただ山に分け入り、鳥獣虫魚山川草木のすべてにカミを感受し、鳥獣虫魚山川草木と同じ一個の命として、ひれ伏して敬意を表する。

 

無力な一個の命として、同時に命と命がつながりあって大きな命の水脈を生きる存在として、大きな命を織りなしている無数の命の幸いを祈る。

山伏がひれ伏すのは命に対してだけである。

 

そして、なぜ、私の旅の先達である「いかがわしい山伏」(以下、いか山伏)はなぜ「いかがわしい」のか?

いか山伏は、山伏の聖地・大峯にけっして足を踏み入れない。

いか山伏は、出羽三山に試しに行って、そこで皆がひれ伏す偉い山伏に出会って、偉い山伏がみなが自分にひれ伏すのを当然のように受け入れているのを見て、「もう二度とここに来る必要はない」ということがわかったという。だから、出羽三山にも二度と足を踏み入れない。

いか山伏は、おのれが暮らす地にある「山」を日々歩く。そこを「俺の山」と呼ぶ。補日々、「俺の山」に登っては祈る。「俺の山」があれば、ほかの山にあえて分け入る必要はない。

いか山伏は権威を退ける、山だけが、生けるもの死せるもの、目に見えるもの見えないもの、大きなものも、小さきもの、かそけきものも、すべての命の気配に満ち満ちている山だけが、つまりはカミだけが山伏にとって、ひれ伏す対象だからである。

なので、それとは異なるちっぽけな人間社会の権威にひれ伏すものに対して、いか山伏は怒る。

いか山伏は、「怒れる山伏」でもあるのである。

 

さて、いか山伏は、五来重先生を尊敬しているのであるが、その五来先生が次のようなことを書いている。

 

全国の山伏は大峯入峯をはたさなければ一人前とみとめられず、領主も保護せず信者もつかなかった時代が長かった。大峯入峯しない山伏は田舎山伏と軽侮された……(中略)

 

大峯修験道はその南北の端にそれぞれ独立して成立した熊野修験と吉野修験が、十世紀ごろ連繋したものである。(中略)ただ両者のあいだによこたわる百八十キロの大峯山脈を共通の修行路としただけである。しかしこの連繋ができると熊野側を胎蔵界とし、吉野側を金剛界とする両部不二の密教理論で、その同一性を主張するようになった。(中略)曼荼羅をもち出して、こけおどしの理論らしきものを立てたのである。それを従来は何か高遠な密教教理が修験道にあるようにかんがえられていたが、山岳修行の実際や信仰の呪術性を表現するのに密教用語を借りたり、密教的に解釈をしたまでである。

 

ここまでも十分に、いか山伏にとっては「いかにも、いかにも」とうなずくところであるのだが、さらに重要なのは、五来先生の以下の言葉だ。

 

しかし、大峯の修行路というものは、もとはそれぞれ独立した信仰の山だったのを、吉野・熊野の山伏がつないだものである。すなわち点をつないで線にしたのであって、それぞれの峯には信者圏とこれをまもる山伏集団があった。たとえば山上ケ嶽は洞川(後鬼)の山伏集団によってまもられ、黒滝川、丹生川、秋野川筋の信仰圏をもっていた。大普賢岳は笙の窪とともに吉野川上流の川上村や北山川上流の天ヶ瀬などを信仰圏にした。弥山と八経岳は天川筋を信仰圏とし、坪内に山伏集団があった。釈迦岳と深仙宿(中台八葉)は上北山筋を信仰圏とし、前鬼の山伏集団がこれをまもったことなどがわかって来ている。こうした独立した山岳信仰は、その麓に生活する人々の神奈備信仰として成立するものであったが、これを吉野と熊野の大修験集団が吸収して修行路が形成されると、その信仰が変質してしまった。

 

権威にのまれてはならぬ。その権威がたとえ山伏世界の権威であっても。

これが、いか山伏の信ずるところであり、それは五来先生の解き明かす歴史の教訓でもあるのだ。

 

カミの坐す偉大な山が一つあるのではない、それぞれの土地に生きる、それぞれの人々にとってのカミ宿る山があるのである。

この世の無数の山は、それぞれに偉大なのである。それぞれに世界の中心なのである。無数の命がそれぞれにかけがえがないように。

 

というわけで、

いか山伏は今の棲み処の神奈備である生駒山に日々手を合わせる、

生駒山は、かつて、山伏(修験者)たちが盛んに分け入り、修行をした山であったのだが、廃仏毀釈でまずはやられ、さらに近代化の過程で山を貫いたトンネル、高速道路建設が、生駒を生駒たらしめていた水脈を断ち切った。

行場の滝は枯れ、カミを訪ねて水脈をさかのぼるお沢駆けの沢も枯れた。

水なくして命があろうか? カミがあろうか?

 

だが、生駒山は、いか山伏にとって「俺の山」である。

 

いか山伏は、今の棲み処に暮らすようになって、もうすぐ一年となる。

この一年ほどの間、すでに山中の行者たちの姿も消え、道も途絶えた生駒山に、鉈を手に分け入り、草木の茂る山中のかすかな道の跡をたどり、ぶよに刺されながら藪をこぎ、修行の道をよみがえらせながら、山の奥へ奥へと進んでいき、ある日、枯滝の上にひとり孤独に立つ不動明王を発見したのである。

不動明王はいか山伏に、「よく来た」と言った。

いか山伏は、不動明王に、「私がここに水を引きます、私があなたをお祀りします」と言った。

それから、いか山伏は、何度も不動明王のもとに通い、行基上人のように土木工事をした、(ここの部分、やや誇張)、ちょろちょろ流れる山中の沢から滝へと水を引き、おのれの修行場とした。

いか山伏曰く、「マイ不動明王!」

マイ不動明王からさらに上へ上へと道を開き、マイ修行路も完成した。途中、岩がごろごろ転がる小さな沢を上る、

お沢駆けの道もある、プチ本格派だ。

 

二〇二〇年五月二十日午後、私はいか山伏の切り開いた生駒山修行路に初めて足を踏み入れた。

 

修行路の入口は、小倉山教弘寺。無住の寺だ。ご本尊は如意輪観音

 

 

 

本堂裏には不動明王が立つ。ここの滝も枯れている。

 

境内には役行者がいる。

 

この寺の本堂の向かって右手の道を、寺の背後の山へと分け入っていくのである。

今はだれも歩かぬ道、いか山伏がよみがえらせた修行路だ。

 

途中、沢がある、足元が心もとない岩場だ、この場所は水が流れていない。

 

ちょろちょろと水の流れるところも歩いた。鳥が鳴いていた。風が吹いていた。

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山の中を木の枝に叩かれ、石に足を取られ、羽虫に襲われ、いろいろな毛虫に出会いながら進んでいって、ついに「マイ不動明王」にたどり着く。いか山伏が水路を掃除する。小さな滝の水が落ちてくる。いか山伏、祈る。

 

待っていたぞと、不動明王

 

 

 

水が流れる、風が吹く、命がさざめく、祈る、祈る、

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さらに山に分け入ってゆく。この世のすべてのものが災厄に襲われぬよう、牛頭天王に祈る。「山 牛頭」の文字は、岩に呼ばれて、いか山伏が刻んだ。

 

 

さらに山に分け入り、阿弥陀仏に祈る。阿弥陀仏真言も、岩に呼ばれていか山伏が刻んだ。

 

 

さらに山に分け入る。大日如来に祈る。大日如来真言も、いか山伏が岩に呼ばれて刻んだ。

 

もうすぐ山頂に出る。椿の花が咲いていた。たくさん土の上に落ちていた。椿もまた、ただそこにあるだけで、南無阿弥陀仏

この先の山頂には遊園地がある。

 

 

山上遊園地を抜けたところにある八大龍王を祀った寺から、大阪側を眺めやった。

右手に六甲山が見える。海が見える。すぐ下が河内。

 

 

ふたたび、山に分け入り、奈良側へと下ってゆく。

今は廃寺の鬼取山鶴林寺を経由して降りていくことになる。

鶴林寺は江戸時代に山の中腹から、ふもとに降りた。中腹にあるのが廃寺となった元・鶴林寺。)

 

 

 

 

 

境内にあった薬師如来。「弐万人回向大菩提」とある。「安政六年」とある。

その奥には墓がある。荒れている。墓のほうには行くな、といか山伏に言われた。

このあと、やはり、少し荒んだ感のある山道を下って、生駒の奈良側・鬼取地区に出る。

 

 

生駒山奈良側から矢田丘陵を眺めた。

手前が竜田川の流れる谷間。

矢田丘陵の向こう側が、登美の小河・富雄川の流れる谷間。

矢田丘陵を長い脛「長髄(ナガスネ)」と呼んだのも、その形を見れば、腑に落ちる。

この山に、この丘陵に、それぞれを神奈備とする山伏がいて、山に伏して祈った日々がかつて確かにあったのだ。

 

今日、私といか山伏は、わが神奈備に分け入り、伏して、すべての命の幸いを祈ってきたのだった。

そして、コロナという疫病に乗じて世を乱す者たちが消え去ることも。小さなマスクの厄病神の退散も。