富雄川沿いの、真弓山長弓寺へ。 十一面観音を確かめに。  (備忘用メモ)

2020年4月28日。真弓山長弓寺再訪。

初めて訪れたのは昨年の八月だった。

そのときも、伊弉諾神社の一の鳥居をくぐって入ってゆくこの名刹に残る廃仏毀釈の跡のことを記録している。

いまは伊弉諾神社とされている、寺の境内の中にある神社が、明治以前は牛頭天王宮であったということ。

境内には役行者が祀られているということ、

不動明王だらけの寺であるということ(真言宗だからね)等々、

 

コロナ禍の今は、ここに牛頭天王宮があったこと、そして薬師院があることに、やはり心が向かう。

 

実を言えば、昨夏は、牛頭天王宮の意味するところまでは考えが及んでいなかった。

ただ、もともと祀られていたカミが、廃仏毀釈の折りに生き残りをかけて記紀神話の神に置き替えられた、という「廃仏毀釈あるある」の変化のほうにばかり思いが行っていたのだった。

 

そして、ここのご本尊十一面観音。

昨夏に訪ねた折は、本堂は閉じていたので、この像を拝することはなく、また十一面観音が意味するところも、関心の外。

生駒市デジタルミュージアム より

 

 

まずは寺の公式HPから、寺の歴史。

 

 奈良時代、土地の豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)とその養子であった長麿(ながまろ)が、若年の聖武天皇に従ってこのあたりで狩猟をした時のこと、森より一羽の怪鳥が飛び立ったのを見て、親子でこれを追っていました。この時、養子である長麿(ながまろ)が誤って父・長弓(たけゆみ)を射殺してしまいました。聖武天皇はこのことを深く哀しみ、行基に命じてこの地に小さな御堂を建て十一面観音をおまつりになって長弓(たけゆみ)菩提を弔いました。また、自らも仏教に帰依され、この寺を深く信仰なさいました。時に神亀5年(728年)、聖武天皇が28歳の頃だと伝えられています。本尊十一面観音の頂上の仏面は、聖武天皇の弓の柄で彫られているという逸話が残っています。 平安時代には、桓武天皇の頃、藤原良継が伽藍を整備し丈六(じょうろく)の阿弥陀、釈迦、四天王を安置して崇敬されました。

 

 聖武天皇行基とくれば、同じ富雄川沿いの古刹霊山寺と同じ。昨日訪ねた王龍寺もまた聖武天皇の勅願によるとの言い伝えあり。

 また、この部分については、『十一面観音巡礼』において白洲正子が、長弓寺の寺伝によるものとして、このように書いている。

 かつてこのあたりに怪鳥がいて、田畑を荒らすので、聖武天皇が「鳥見」をおいて監視させた。よって、登美の小河が「鳥見川」と改称されたが、依然として怪しい鳥が出没するので、天皇みずから狩に来られ、首尾よく怪鳥を射て落した。その時怪鳥は忽然と金色の鷹に化し、仏法擁護の神であることを告げたので、行基に命じて、白檀の十一面観音を祀り、牛頭天王を以って鎮守とした。観音を造るに当り、天皇所持の弓をもって、頂上の仏面を彫らせたので、山号を「真弓」、寺号を「長弓寺」と名づけたとある。 

 

 

さらに、白洲正子はこう書く。ここの部分とても大事。

何やら神武天皇の金鵄伝説をもじったように聞えるが、古くはこの地方を「登美」と呼び、長髄彦支配下にあった。長髄彦は一名登美彦ともいい、「登美の小河」の名もそこから出ている。とすれば、いよいよ神武天皇の故事を元に作られたことは確かで、神武が聖武になり、登美彦が鳥見に変り、金の鵄が金の鷹に化けたのであろう。

 

これについては、昨日の王龍寺でも実は気になるところがある。

それは、戦前の軍国主義の時代に登美神社がどのように語られたかということをめぐることだ。

ちなみに、長弓寺の牛頭天王宮にもまた「登美神社」説がある。

もしかしたら、金鵄勲章の、あの「金鵄」のゆかりの地はどこかということをめぐっての、記録の書き換え、あるいは「金鵄」の故地の争奪戦めいたことが富雄川流域の寺社で繰り広げられていたのかもしれない。

これについては、またあとで。

 

 

さて、長弓寺の案内に戻る。

 また、弘法大師がこの地を訪れた際も、善女龍王を感得されたと伝えられています。その後堀川天皇が、伽藍を修復し大般若経六百巻を施入して、世の平安と諸人の快楽(けらく)を祈られました。しかし、平安末期・安徳天皇の御代には火災にあったと、東大寺資材帳に記録があります。

 

弘法大師ー善女龍王のくだりも、霊山寺と似通う。

 

その後室町時代応仁の乱で、山名宗全の落人による重宝破壊、戦国時代には織田信長によって寺領が没収、明治の廃仏毀釈(きしゃく)によって寺運は衰退の一途をたどりましたが、昭和10年の大解体修理を経て今も本堂が現存しています。 (後略)

 

 応仁の乱、戦国時代、廃仏毀釈と政治に翻弄されたことは、このあたりの寺社に共通するところ。

 

 というわけで、基礎知識をもう一度頭に入れて、伊弉諾神社の一の鳥居をくぐって長弓寺へと入ってゆく。

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 塔頭たっちゅうは20ケ院あったと伝えられますが、現在は円生院えんしょういん宝光院ほうこういん法華院ほっけいん薬師院やくしいんの4坊が残っています。

 現在は、法華院、円生院、薬師院、宝光院の4つの塔頭があるが、昔はもっと広大な境内地に20院の塔頭があったという。

 

 

 入口にはまず宝光院 地蔵堂写真

 

 

 

境内に入り、本堂へと向かう坂の右手には薬師院。

 

 

 

この中には、毘沙門天不動明王が祀られ、大黒天も恵比須さんも置かれている。

毘沙門天ー大黒天ー恵比須の三点セット。

 

 

 

さらに坂をのぼると、(といっても数メートルの距離)、伊弉諾神社となる。

  

 

 

寺蔵の『長弓寺縁起』によると、天平十八年(746)同寺建立に当たって牛頭天王社・八王子(若宮)社を祀って鎮守としたとある。

 

そして、由来にあるように、廃仏毀釈の折りに牛頭天王を、牛頭天王垂迹神である「素戔嗚」に置き替えた、ということだろう。

 

本来は疫病退散を祈願する牛頭天王社であった。

後付けの記紀の神々は牛頭天王がこの地で生きのびるための便法。

 

入口の灯篭には、 「牛頭天王宮」「文化八年」とある。

 

オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ

連れの山伏、唱える。

私も唱える。

 

 

 

 

 そして、本堂。

 

 

 残念ながら扉は閉ざされ、十一面観音は拝観できず。たまたま通りかかったご住職に尋ねてみれば、正月と8月に御開帳だとのこと。

 

本堂の裏手、右側へとまわってみれば古びた池と祠がある。

弘法大師がこの地を訪れた際も、善女龍王を感得された」と由来にある、その「善女龍王」の祠だ。

 

水の神、龍神

龍神のいるところには、同じく水の神 十一面観音。

 

 

 

本堂左手には、役行者

真言宗の山であるここ真弓山は、修験道場であったはず。

役行者の脇には江戸時代の年号が彫られた西国33か所の観音像が山のように積み上げられている。これも、本来は、ぐるりと巡れるようになっていたはずだ。

 

 

 

 

 

 本堂から坂を下りていって、不動明王堂を覗く。

毎月28日はお不動さんの日。ここで護摩を焚いての祈祷会がある。

 

 

 

 

 

そして、今日は、長弓寺の境内の飛び地である「真弓塚」へと足を伸ばす。

長弓寺本堂の背後、真弓山を登ってゆくことになる。車で行けば、4~5分の距離だ。

山と言っても、長弓寺の背後は今では住宅地。住宅地のなかにポツンとある小高い丘の上に、「真弓塚」はある。

まずは、「真弓塚」について予習。

 

真弓塚

小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)の墓といわれる塚。真弓長弓は富雄の豪族で、息子の長麻呂を連れて聖武天皇の鳥狩に従っていたところ、運悪く長麻呂の射た矢に当たり、命を落としてしまう。その墓が当地に造られたとの伝承が残っている。また、真弓長弓の墓とする説のほかに弓を埋めたとする説もある。真弓塚は聖武天皇が真弓長弓の冥福を祈るために建立した長弓寺の飛び地境内であり、寺ゆかりの地と考えられている。

 (web「ええ古都なら」より)

 

 この伝承の他に、聖武天皇の弓の木屑を埋めた、あるいは「饒速日命(にぎはやひのみこと)」(注)の弓矢を埋めたとも言われている。

 

しかし、この塚の真の意味は、ここから大和平野が一望のもとに見渡せることにあるのではないだろうか。

「見渡す」は「治める/支配する」ことである。

『十一面観音巡礼』で白洲正子も書くとおり、真弓塚の伝承は「どこまでも武器が物語の中心をなしている」。

 

 

(注)饒速日命

 

世界大百科事典 第2版の解説
 
日本神話にみえる神の名。物部氏の祖先神。櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)命とも呼ばれる。名義は敏速に活動して豊穣を実現する穀霊の意。天磐船(あめのいわふね)に乗って天から大和国に降り,長髄彦(ながすねひこ)の妹,三炊屋媛(みかしきやびめ)(トミヤビメとも呼ばれる)と婚した。神武天皇の東征にあたっては,みずからも天津神(あまつかみ)の子であることを証明し,長髄彦を殺して帰順した。《旧事本紀》には天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊の子とあり,降臨のようすが記されている。

 

真弓丘

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、金鵄勲章と登美神社問題である。 

以下の資料は、『生駒市史』から。

 

<資料五>鴉神社由来記(昭和15年8月5日発行 編集者飯野純道)

             ※飯野純道は、王龍寺の当時の住職。

 

 王龍寺古文書二依レバ、聖武天皇、此ノ地二狩猟セラレ鳥見ノ古跡ノ衰頽ヲ嘆キ給ヒ 鴉神社ヲ再興シ 王龍寺モ併セ造ラレシニ 戦国争乱ノ間兵火ノ為二焼失セリ。

 

其ノ状 延享三丙寅(1746)年ノ 寺院本末帳二

鎭守鴉之三社、天神、地神、神武社、(四尺ニ六尺、花表一間ニ八尺)、神武天皇 鴉之瑞ニ依テ位ヲ保チ 世ヲ治メ給フ 依テ之ヲ鴉谷ト號ス 神武四年天下ニ詔ヲ下シ鴉之霊社ヲ鳥見山中ニ立ツ 高祖天神を郊祀シ大孝申へ給フ 霊社之地ヲ號シ 上小野榛原下小野榛原(カミツオノハイバラシモツオノハイバラ)ト曰く 故二 後ノ世 二名山(ニメウヤマ)ト號ス・・・・・聖武天皇ノ勅願ニ依リ 天平七年七 堂伽藍寺院多數建立アリ 其後兵火の為ニ破壊シ纔二 後二 奥院一宇相ル」とアリ。

 

又同年代頃ノ和州添下郡鴉谷二名村海瀧山王龍寺縁起ニハ「・・・・・鎭守鴉神社ハ 地神五代 鸕鶿草葺不合尊 (ウガヤフキアヘズ)尊 第四皇子人皇第一代神武天皇・・・・・鴉ノ奇瑞ハ 天照大神ノ感慶ナヲ敬ヒ 其所ヲ鴉谷ト號シ給フ、同橿原二都ヲ開キ給ヒ 神霊ノ社ヲ 鳥見山中二建テ、鴉大明神卜崇メラル云々」。

 

とりあえず上記で分かるのは、江戸時代半ば頃に、王龍寺の鎮守として「鵄(鳥見/登美)神社」があったということ。その由来については、兵火で焼失したのちの長きにわたる荒廃ののちに王龍寺が再興されたときに新たに作られたものとすれば、当時の記紀の知識等を動員し、神武天皇伝説と絡めてそれなりのものを作ったのではないか、とも思われる。

 

又大字二名ナル語字二関シテハ「鴉大明神ヲ崇メラル、其地ヲ上ッ小野榛原、下ッ小野榛原卜云フユヘ二名山ト號ス。民屋ノアル所ヲ二名邑卜云ヒ傅ヘラル」トアリ。

 

尚此ノ二名二就イテハ寛永十癸酉仲春ノ古書ニ「二名と云ふ譯は此所を上小野波利原、下小野はり原と云ふ名前二ヶ所有故也」トアリテ 此ノ地古代ヨリ金鴉發祥鳥見山中ノ靈蹟ナル事ヲ物語リ、王龍(黄立、王立)ノ名ノ偶然ナラザル事ヲ察セラル

 これは、王龍寺の位置する「二名」という地名の由来を語った部分だ。そして、二名では、「鵄(登美/鳥見)大明神」が崇められていたということも。

 

 其ノ他二古図、古伝、古記録、数多ナルモ、正徳ノ昔(1711~1716) 郡山藩主本多忠直公ヨリ此ノ寺二下サレタル古地図ニモ鴉神社ト明示セラレ 今ヤ武神ヲ祀ル、救国ノ神霊、金鴉ノ社トシテ、世人ノ信仰日ヲ追ツテ増シツヽアリ

 

王龍寺再興当時の古地図に鵄神社がきちんと示されている、というわけだ。

その鵄神社が、神武天皇ゆかりの社かどうかは、江戸時代に寺伝を製作した者による想像の産物、もしくは権威づけのための創作の物語なのではないかと私はひそかに思う。

 

そして、そんな物語を持つ寺は、皇紀2600年にあたり、時世にのまれるようにして、神武天皇ゆかりの社を持つ、皇国の寺となってゆく。

 

中興開祖梅谷禅師ハ元禄ノ昔、此ノ鴉ノ古跡ヲ探りテ中幕既二尊皇ノ大義ヲ唱セリ。

 

四代法源和尚又尊皇ノ心篤ク 大和ノ談山神社二参拝シテハ、臣鎌足ノ社ガ斯クモ壮麗ナルニ 人皇第一代神武天皇ノ山陵及ビ其ノ霊社カ 未ダ不明ナルハ恐畏ノ至リト慨嘆シ 鴉神社ノ盛大二 カヲ尽セリ

 

皇紀二千六百年ノ聖年ト共二 次第二世二認メラレシ此ノ山峡幽谷ハ 橿原ノ恩地トシテ、大和ヲ訪レル者、必ズ此ノ聖地二杖ヲ曳キ、往古ノ神霊二跪拝シテ、日本人タルノ誇ト自覚ヲ喚起スルニ絶好ノ清境ナリ。

尚附近二古跡、名勝多ク、一度訪レバ、一木一草二古歌古詩古伝二昔ヲ偲ベバ、古キ日本ノ姿ヲ吾等ノ眼前ニ彷彿セシムノ感アラン。

 

 

 

~解説~ (『生駒市誌』より)

 これは王竜寺にある鴉神社を顕彰するために作られた由来記である。戦時中のこと故、尊皇の大義強く説いている点がうかがわれる。王竜寺は生駒町上村のすぐ南隣するところであるので、その一部を資料として収録した。鳥見の霊地の一候補地として戦時中人々にはやし立てられた。今この地を訪れると苔むす祠が淋しく残っていて、そぞろ時代のうつりかわりと盛衰変化を思わせる。この感じは他の鴉山伝承地の一つ一つについても同じである。

 

 

白洲正子は、昭和40年代の末頃に王龍寺を訪ね、ヘルスセンターのように見えて入る気にもならなかっ霊山寺に比して、この王龍寺のひっそりと草生した風情、摩崖仏の十一面観音に感動し、この寺の草むらの中の小さな祠の「登美神社」(と白洲正子は書く)に心ひかれ、こここそが登美一族発祥の地にちがいないと確信する。

 

その「登美神社」も、それから半世紀近くが経った今では、打ち捨てられていると言ってもいいような荒れようだ。

 

いやいや、そもそも、白洲正子が訪れたときには、すでに打ち捨てられている状態に近かったのではないか。もしや、その寂しさを素朴さに白洲正子は誤解したのではないか。

 

皇国の「鵄神社」は、日本の敗戦とともに権威も地に落ち、それと同時に「鵄神社」に祀られていた本当のカミである「鳥見明神」もまた、巻き添え事故のようにして人々から放り出されたのではないか、それは第二の廃仏毀釈に近いような出来事だったのではないか、とすら私は想像する。

 

日本の近代は、こうして風土のカミを繰り返し殺していたのではないかと。

 

王龍寺の本堂には十六羅漢像もずらりと並んでいたのだが、その隅に砲弾が一緒に並べられていたことを、境内で聞いたジュウシマツのツピツピツピツピという鳴き声とともに、いま、ふと思い出した。