『女たちの同時代 北米黒人女性作家選② 獅子よ藁を食め』 メモ

森崎和江 解説を読む。

1981年11月初版の本だから、森崎さんもこの解説文をおよそ40年前に書いている。

1927年生まれの森崎さんが、54歳のときの文章。

 

日本人であるわたしたちには、ほんとうのところ、アベバもアンジェラも聴きとれないのかもしれない。それはひょっとしたらわたしたちの対極にあるのかもしれないから。列島の中で自足し、その中で祖先の遺風を愛しつつ生き、あなたのおくにはどちらですか、と確かめてはうなずき、根づくことを生活の中心価値としている日本では。

 

植民地に生まれ、植民地に育まれた、外地育ちの少女だった森崎さんの日本内地に身を置くようになってからの、変わらぬ問いがここにある。

 

森崎和江が読む「アベバとアンジェラの世界」とは――

 

男と女といて、子をつくることをきらめく太陽とともに愛していた大地から、男も女もばらばらに引きちぎられ、形而上界ともどもに根こそぎにされた。歳月は個体にも、あたしらの連中の中にも、積み重なることなく吹き消えつづけ、消されつづけ、ようやくピーナッツしか育たぬ砂地で、観念でしかなかった歳月を溜めはじめる。その砂地に心を寄せ、遥かなアフリカの花を心にかざし、旅へ出て砂もないビルの谷間で消えていく月日を数える。が、ここに……

そう書きつつ、 

「このような側面しかわたしたちはみないかもしれない。」

と森崎さんは日本に眼差しを転じる。

 

そしてその生態を、日本では根なし草という。信じられない人間といういみである。たとえその発端が何であれ、信用を得たいならば、根づくように努めよという。何に根付くのかといえば、根づくことが最高の美徳である生態の中に、である

 

しかし、いま、この世界でわたしたちの置かれている状況を直視するならば、人類全体が「根なし草」なのではないか。 そのことを確かにこの解説文で森崎さんは語っている。

 

未来へむけて、核兵器をもつ地球の支柱となるものは、兵器による自衛ではなく、科学の発展でもなく、ハブルシャムかあさんの体温のような人間性の世界的規模に於ける確立しかない。が、それへの道程は、単純ではなく、単一な方法論では手はつけられない。はっきりしていることは、きのうまでに体験した手段のすべては、その使命は終わっているということである。そしてまた人間たちは、それぞれが踏んできたきのうまでの歴史を土台にすることなく、明日という文明の扉は引きあけられない。

 

 ハブルシャムかあさんとは、主人公のアベバ(アフリカの花という意の名)を実母に代わって生後すぐから7歳まで育てた産婆の老婆。

「いうまでもなく頭をくっつけて睡る二人の人間は同じ夢を見るものだと人々はいう。アベバは産婆と睡ったのだ。老婆が見る夢を見たのだ。年寄りたちの秘密をいくらか知っているのも不思議はない」

アベバと産婆の ハブルシャムかあさんの見えない糸で結ばれた関係。近代の論理をはるかに超えた命と命のつながり。

 

そして、2020年代のいま、私たちが行き止まりの中で考えていることを、80年代に既に森崎さんはこのように語っている。

 

いっせいスタートに立って歩き出す鳥のように、晒されている同時代のわたしたちは、先達のいない時空へむけて歩かねばならない。真実、先輩がいないのである。たとえ心のくにへ回帰しひとときの呼吸をしようとも、その幾千年来の先祖たちの血と汗を抱きしめて浮上するほかにない。その中に、先人の生の確かな手ごたえのあることを自ら確かめて、自分自身に立つことを告げるほかにない。

厳しい。

そして、性の問題。これほど政治的経済的な領域もない。

(政治と経済は資本主義世界では一体のものだ。)

六十年代に入って三、四年たった頃、わたしは女たちの性ばかりでなく、人間にとっての性のみじめったらしい状態がいやで、次のように書いたことがある。今日のように人びとが人間について無頓着で、もっぱら者の生産に血道をあげていると、ろくなことはない。進歩的な人びとも資本主義生産の功罪ばかりに意識を片寄らせて、生命生産については神のおぼしめしなどと無分別地帯に放っている。このままなら、そのうち人間のいのちだって物質生産の論理にのっとられてしまう。そうして女たちも、ただ産むことだけの階層と、産ませてから子を所有するものとに分かれてしまうことだろう、と。

しかし、この文章に続く森崎さんのこの言葉は痛烈。

「たとえ爆発する火山のそばでも、あるいは命を賭けて逃亡する闇の中でも、しらみのように、ただ産むことだけをする人間たちである。」

 

この楽観主義の根底に、「種の存続への本能」を見つつ、それが人類を滅ぼすかもしれないことの危惧もまた、次のように呟かれる。

「たとえ世界大国が核兵器をぶっ放しても、誰かが生き残るさ、という現代神話の信仰は、アミーバ―よりも素朴な細胞の声かもしれぬ」

 

ともかくも、この現代を生きている。同時代のあなた、あなたの呼吸に耳を澄ませつつ、救いを求めるかの如く指先をそよがせ、生きている。感覚は一粒の砂にさえ愛がこもる。それほどにちいさいまま。

 

感覚は一粒の砂にさえ愛がこもる。それほどにちいさいまま。

それぞれに異なる生を生きる無数の一粒の砂のつぶやきなどを押しつぶしていくこの世界にあっては、一粒の砂への愛を語ること、それを実践することは、強く厳しく、だからこそ美しい。そして森崎和江解説に応答するかのように記された「北米黒人女性作家選」の編者藤本和子の言葉もまた美しくも厳しい。

 

 断ち切られ、打ち砕かれかに見えるふるさと、単なる「いなか」の自然以上のものであるふるさと、遥か三百年の年月と、過酷な大西洋航路の連行の旅を超えて連なるふるさとは、生き続けるようなのだ。傷跡を残しながらも、生きのびるようなのだ。

 アフリカの花の生涯には、そのような時空が凝縮されていた。作者はそのような母への鎮魂歌を書き記した。わたしたちの死んだ母たちに、わたしたちがうたう歌は何か?

 

四十年前に放たれた大切な問い。いまいちど。

 

「わたしたちの死んだ母たちに、わたしたちがうたう歌は何か?」

②それぞれに異なる生を生きる無数の一粒の砂のつぶやきなどを押しつぶしていくこの世界にあっては、一粒の砂への愛を語ること、それを実践することは、強く厳しく、だからこそ美しい。そして森崎和江解説に応答するかのように記された「北米黒人女性作家選」の編者藤本和子の言葉もまた美しくも厳しい
 
 
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姜信子
 
@kyo_nobuko
 
③「断ち切られ、打ち砕かれかに見えるふるさと、単なる「いなか」の自然以上のものであるふるさと、遥か三百年の年月と、過酷な大西洋航路の連行の旅を超えて連なるふるさとは、生き続けるようなのだ。傷跡を残しながらも、生きのびるようなのだ。」
 
 
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姜信子
 
@kyo_nobuko
 
④「アフリカの花の生涯には、そのような時空が凝縮されていた。作者はそのような母への鎮魂歌を書き記した。わたしたちの死んだ母たちに、わたしたちがうたう歌は何か?」(藤本和子) 四十年前に放たれた大切な問い。いまいちど。 「わたしたちの死んだ母たちに、わたしたちがうたう歌は何か?」