ベンヤミン「新しい天使」    メモ

――これから進む道のための書き抜き――

 

瓦礫

 

「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。そこには一人の天使が描かれていて、その姿は、じっと見つめている何かから今にも遠ざかろうとしているかのようだ。その眼はかっと開き、口は開いていて、翼は広げられている。歴史の天使は、このような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去へ向けている。私たちには出来事の連鎖が見えるところに、彼はひたすら破局だけを見るのだ。その破局は、瓦礫の上に瓦礫をひっきりなしに積み重ね、それを彼の足元に投げつけている。彼はきっと、なろうことならそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。だが、楽園からは嵐が吹きつけていて、その風が彼の翼に孕まれている。しかも、嵐のあまりの激しさに、天使はもう翼を閉じることができない。この嵐が 彼を、彼が背を向けている未来へと抗いがたく追い立てていき、そのあいだにも彼の眼の前では、瓦礫が積み上がって天にも届かんばかりだ。私たちが進歩と呼んでいるのは、この嵐である。 (ベンヤミン「歴史の概念について」)

 

 

天使の儚い歌

タルムードの伝説によるなら、天使たちは瞬間ごとに無数の群れとして新たに創造され、神の前で讃歌を歌い終えると、静まって無の中へと消え去ってしまうのだ。

ベンヤミン

 

 

記憶する言葉

人類を世界戦争の破局へと駆り立てる「進歩」の「嵐」に必死で抗いながら、過去へ眼差しを向け、破局としての歴史を凝視する「歴史に天使」。この天使は瓦礫を拾い上げながら、名もなき死者たちの一人ひとりを、またこの死者たちが経験した出来事の一つひとつを、それ自身の名で呼び出し、その記憶を呼び覚まそうとする。しかも、そのような天使の身振りは、言語そのものを、名を呼ぶことから捉え返すベンヤミン言語哲学の核心を具現させてもいるのだ。 

 

中略

 

ベンヤミンは『パサージュ論』のための草稿のなかで、「歴史を書く」とは既成の支配的な歴史を破壊する仕方で「歴史を引用することである」と述べている。それによって一つの「像」のうちに死者の生きた出来事が、まさに生きられた出来事として呼び出されるのである。

 

中略

 

そのためにはまず、記憶する言葉、すなわちベンヤミンが「像」と呼ぶ、生きられた出来事がまさにそこに甦ってくる媒体としての言語を取り戻さなければならないはずである。そのような言葉は、ベンヤミンが語る天使の歌にもむすびつけられうる仕方で歌う言葉、日常言語にとって破壊的ですらあるような強度をもって語られる詩的な言葉でありうるだろう。

 

中略

 

詩的な言語が抑圧され続けるなかに生きることが、今や新たな戦争を続けている権力の「道具」になることと結びつきつつあるとするならば、「抑圧された者たち」、すなわち「数」として死ぬことを強いられたうえに「歴史」によって忘却されてきた死者たちの一人ひとりに応える記憶の媒体となりうる言葉を語る可能性を、またそれを受け止める文化の可能性を、今ここに切り開こうと試みるべきではないだろか。

        (『忘却の記憶 広島』所収 柿木伸之「記憶する言葉へ」より)

 

 

マンデリシターム 詩

詩――それは時間の地層の深部、その黒土が地表に現われるよう、時間を掘り起こす鋤である。