本を読みつつ、雑感。

「希望なき人々のためにこそ、希望は私たちに与えられている」 by  ヴァルター・ベンヤミン

 

「神話の呪縛を断ち切りながら瓦礫の山を掘削する思考が、「忘れがたい」生の記憶を探り当て、それを今ここに呼び覚ます像に結晶するとき、時代の闇を貫く道を切り開きながら、真に言葉を生きることができる。」 by ベンヤミンを批評する柿木伸之

 

 

バベル以降の歴史世界、近代以降、民族に国家にと体系的に束ねるものとしての言葉があり、その言葉に束ねられてきた人間がいて、人間たちは瓦礫の近代に使い棄てられるように生きて死んで、そんな束で生きて束で死んでゆく「生」で形作られた閉ざされた世界では生きられない私たちは、内側から食い破る言葉を紡ぎだしてゆかねばならないのだろう。

束の中で生きられなかった者たちの名、まつろわぬ者たちの名で発せられる、それぞれに異なる生とともにある自立した言葉、無闇に繋げられず束ねられない言葉。となると、それは詩になるほかならないのだろう。

生き方としての「詩」があるのだと詩人金時鐘は言ったが、それが意味するところは、おそらくこういうことだ。独り立つ、独り行く者たちの言葉は互いに多くの余白を持ち、互いに互いの言葉をその余白に響かせ合うこと、(それを翻訳と呼んでもいい)、そこからさらに新たな言葉、新たなつながり、新たな想像力が生まれいずること、それこそが「詩」なのだ。

閉ざされた世界を突き破る。明るい闇に閉ざされた生、真っ暗な闇に封じられた死に、息を吹き込む、閉ざされた世界を攪乱する、革命する、そういうものとしての「詩」を生きること。

 

まずはひそかに、ひとりで。

 

そんな「ひとり」たちが集っては散ってゆく「場/媒体」を開いてゆくこと。

そこでは異人/異神たちの声、歌、語り、踊り、芸能が繰り広げられること。