李起昇 作品抜き書きとメモ その2「鬼神たちの祝祭」2019

この人は、なんというか、言語原理主義のように感じる。

すべてを言語から説明をつけようとする。

日韓の違いとか、差別の構造とか。

明晰さより、息苦しさが先に立つ。

 

日本と韓国とのはざまで、日本と韓国に囚われて生きること、そう生きざるをえないことのの息苦しさ、と言ってもよいかもしれない。

 

P40 ~

歴史の先生が、過去の在日の留学生について話したことがあった。

「歴史を学んで、民族のプライドを取り戻した彼は、日本に戻ると直ぐに本名宣言をしあした」

聞いていた多くの在日は、「おお」と感動の声を漏らした。しかし彼は俯いて「バカ」と一人小さく呟いた。

 

この件については、私もたぶんそう呟くと思う……。

彼とは違う理由で。

 

彼の理由は以下の通り。

 

P41

韓国の「か」の字も知らず、言葉も知らず、韓国的なものといえば変な一世を目の前で見て知っているぐらいのことでしかない。そんな人間は民族のプライドなど持ちようがないのである。それだのに錯覚をして民族のプライドを回復したと思い込み、民族のために本名を名乗るとしたら、三日と経たない内に後悔するだろう。

(中略)

日本で本名を名乗るということは、差別したければすればいいという宣言であり、その結果収入がなく、飢えて死ぬこともありうるということを覚悟しなければできないことなのだ。殺される覚悟無しに、日本で本名を名乗ることはできない。

(中略)

本名を使うのは民族のためではない。民族のことなど何も知らないのだから、民族のためであるわけがない。本名の使用は、自分を差別している自分と決別するためにするのである。在日は頭の中の日本語の故に、自分で韓国人である自分を差別するという構造の中に置かれている。頭の中の日本語が否定する韓国人というのは自分自身である。それで在日は、自分を差別する世界で最初の人間が自分、という重荷を背負わされることになる。この構造を破壊するために本名を使うのである。本名を使うことで、自分は自分を差別しないという形を作ることができる。自分は決して自分を差別する、世界で最初の人間にならないと、意識できるようになる。

 

 

彼の言語観は、儒教倫理を宿した韓国語と向き合えば、下記のような結論を出すに至る

 

p82

彼は韓国に留学して言葉を学び、韓国語には基本的に上か下かの言葉づかいしかないことを知った。勿論お客様用の丁寧な言葉づかいはあったが、それを離れると年齢が下の者に対する言葉づかいは犬や猫に対するのと同じだった。若い世代を犬猫扱いするようじゃこの国に未来はないな、と思った。

 

韓国語もまた、差別の構造を持つ言語なのであるということ。

(たとえば、済州島差別もまた、韓国語に組み込まれている差別なのだと)

 

P161

 

在日の二世以下の者は日本語しか知らない。それで日本人の差別心を持つにいたる。自分を差別しているのは自分自身だということを多くの在日は知らない。その結果、自分の差別心に怯えて韓国人であることを隠そうとし、日本人らしく振る舞おうとする。在日の基本的な精神構造は強迫神経症のそれに似ている。いつもビクビクし、自分が韓国人だとばれないか怯えながら生きているのである。怯えを作り出しているのは、自分自身が使っている日本語だと、全く気がついていない。在日の多くは差別されていると思い込んでいるが、実は、在日を差別しているのは、在日自身なのだ。日本を非難することはない。自分で自分を差別するのをやめればいいだけのことである。(中略)外的な差別には、自分が自分を差別していなければ戦うことができる。しかし日本人より先に自分で自分を差別していたら、本当の差別に直面したときに、簡単に差別に負けてしまうことになる。

 

P301~

最終章  これもまた李起昇の思いの吐露の言葉

 

日韓の文化の差の根本原因は厄払いの仕方の差にあると思うようになりました。韓国人は遊牧民族の影響で、魔女を必要とし、魔女に全ての厄を押しつけます。(中略)対して日本人のうち、元々の倭人はみそぎで厄を払います。悪い憑き物は洗い流して終わりです。日本人のうち、西日本の渡来人は半島で遊牧民族の影響を受けたので、この人たちも魔女を必要とします。それは歴史的には被差別部落の創作として現れます。(中略)しかし東北地方には被差別部落は存在しません。それはアイヌ人が、厄を共同で引き受けるという文化を持っていたからです。

(中略)

韓国には犯人捜しをし、全てをその者のせいにして、自分だけは清く正しく美しい、と主張する価値観しかありませんが、日本には三種類の価値観が混在します。大昔の民族の違いが現代にもそのまま引き継がれています。

 

このあと、天皇陛下を尊敬すると語る。みそぎの文化の中にいながら、国民も政治家も過去をすっかり洗い流している状況の中で、靖国に参拝しないことをもって、政治家連中と異なり、天皇だけは先の戦争を反省しているのだと。日本人以外の死者のことを忘れていないと。

 

国家・民族の外に出て、国家・民族を見つめ直す、その囚われから解き放たれたところで、歴史を見つめ直し、人間を見つめ直し、差別を見つめ直し、おのれを見つめ直す、ということを試みる「個」としてあろうとする李起昇の思考は、性急にすべてをフラットにして数字を扱うように物事の判断をつけていくようにも映る。

 

たとえば、靖国について。

P305 ~

(在日の)活動家たちは日本の政治家が靖国に行って「弔うのはけしからん」といいます。それに対し私は、

「子が親を弔う。当然のことではないか」

と答えました。すると彼らは、

「同じ民族なのに靖国に賛成するとは何事か」

といきり立ちます。で、私は答えます。

靖国は祀っているんだ。弔っているんじゃない」

 

韓国語にはこの二つの言葉の明確な違いがありません。だから韓国人がいうのなら未だ理解しますが、日本語で育った在日が、弔うのも祀るのも許さんというのは、無茶苦茶です。

 私は人が人を弔うのは当然のことだと思っています。ましてや子が親を弔うのは当然のことです。しかしその親に殺されたものたちの子孫がアジアを初め世界中にたくさん居ますから、その者たちに見えるように、これ見よがしに祀るのは、控えるべきであると思っています。弔うのは当然だが、祀るのはやめてくれというのが、自分の感想です。

 

君が代国旗掲揚にしてもそうです。在日の、意識が高い系の人たちは、その場に座ったまま動きません。しかし私は起立して、敬意を表します。君が代は韓国の国歌ではないから歌いませんが、日本の国に誇りを持ってそういう儀式をしている日本人の心は尊敬します。(中略)国旗という布きれは悪いことをしません。それを持った人間が悪いことをしたのです。

 

日本も、純粋な日本とかいい出すようだとやばいと思います。そんなことをいい出すと純粋さを守るために犯人が必要になりますからね。犯人を必要とする精神レベルは餓鬼のレベルです。それは自分を神の座る場所に置いた者がする行為です。そういう人たちは愛を前面に押し出して、愛する者を殺してしまいます。

 

自分を神の座る場所に置いた者。

この言葉には、韓国の儒教倫理を体現し、絶対権力者として家族の上に君臨した彼の父親の影がある。