バートルビー

当然のことながら、小説はやはり読まなくちゃいけない。

当たり前のことだが、あらすじを知っていたとしても、そんなことには何の意味もない。wikiなんか見て知った気にならないほうがいい。(自戒を込めて)

しかも「バートルビー」、

あまりに語られすぎていて、「バートルビー」をめぐる語りに気を取られていると、その語りを呼び出した小説そのものを見失ってしまう。

 

柴田元幸訳「書写人バートルビー」を読んだ。

小説の中の語り手の声に耳を澄ます。

そもそも、バートルビーだけではない、語り手の事務所で働く書写人たちの誰もがとうていまともにも見えない。雇われている、ということを忘れているような者たちばかり。

その極致が書写人バートルビーということになろうか。

(同時にまた、雇い主である語り手本人もまた、そのふるまいは、ちっとも雇い主らしくない)

 

「そうしない方が好ましいのです」。

すべてに対して、婉曲な言葉ながら、まっすぐに「No」と言う。行動でそれを表す。

衝立の奥に静かに消える。

 

最初は書写以外のすべてのことを拒否、やがて書写そのものも拒否、命じられるすべてを拒否、書写事務所から動くことも拒否、ついには存在することも拒否。

 

バートルビーがなんと事務所を塒にしていることを知ったとき、語り手はこう考える。

生まれて初めて、圧倒的な、刺すような憂いの気分が私を襲った。それまで私は、快いとすら言える程度の哀しみしか味わったことがなかった。人間たることの共通の絆が、今や私を陰鬱な想念に導いていった。友愛ゆえの憂い! 私もバートルビーも、ともにアダムの子なのだ。その日目にした、白鳥の如く着飾って、ブロードウェイの大河を流れるように下っていく、艶やかな絹や光り輝く顔の数々を私は思い出した。そうした眺めを、青白い顔の書写人と対照させて、独り私は思った。ああ、幸福は光を招く。ゆえに我々は世界を華やかだと思い込む。だが不幸は人目につかぬ場に隠れる、ゆえに我々は不幸などというものは存在しないと思い込むのだ……。そんな物哀しい夢想が……明らかに、病める愚かな頭脳の産んだ幻影だったに違いない――バートルビーの奇癖を更なる想いにつながっていった。奇怪な発見の予感が、私の周りに漂っていた。かの書写人の青白い体が、彼のことなど一顧だにせぬ人々の只中に、震える屍衣に包まれて横たえられている情景が目に浮かんだ。

 

バートルビーは無為の塊になって事務所にいる。語り手はとうとう事務所を別の場所に移転する。バートルビーは事務所のあった場所から離れない。新しくその場所に移ってきた者が困り果て、バートルビーはついには拘置所に放り込まれる。拘置所では、事務所にいたときと同様、何もせず、拘置所の中庭の高い壁を見つめ、食べもせず、無為であることによって、すべてを拒んで、ついに息絶える。

 

後日談

あるささやかな噂が、彼の書写人の死後何か月か経って、私の耳に届いたのである。噂がいかなる根拠に基づくものかについては、何も確かめられなかった。したがって、これがどこまで真実なのかに関しても申し上げられない。だが、この曖昧模糊とした風聞が、私には妙に腑に落ちるところもなくはなかったがゆえに、きわめて悲しい噂ではあるが、他の方々にも同じように思われることもあろうと考え、ここで簡単に紹介しておきたい。こういう話である。バートルビーはワシントンの配達不能郵便取扱課の下級職員をしていたのだが、上層部が交代したため突如解雇されたというのである。この噂に思いを巡らすとき、私を捉える感情の強さはどうにも言葉にしようがない。配達不能郵便! それは死者のような響きがしないだろうか? 生まれつき生気なき寄るべなさに苛まれがちだったのが、身の不幸によってさらにその傾向が助長された、そんな男を思い描いてほしい。それをなお一層高める上で、配達不能の手紙を四六時中扱い、火に焼べるべく仕分けをする以上にうってつけの仕事があるだろうか? 荷車にどっさり積まれて、手紙は毎年焼却される。時折、畳まれた紙のなかから、青白い顔の郵便局員は一個の指輪を取り出す――それをつけるはずだった指は、もう墓のなかで朽ちつつあるのかもしれぬ。大至急に慈善を果たすべく送られた銀行手形――それによって救われたであろう者はもはや食べも飢えもしない。絶望して死んでいった者たちに赦しを。希望なく死んだ者たちに希望を。一時の安らぎもない不幸によって息の根を止められた者たちに良き報せを。人生の使いを携えて、これらの手紙は死へと急ぐ。

 ああ、バートルビー! ああ、人間!

 

あるいは、こうも言えるのだろう。

人生の使いを携えて、これらの手紙は詩へと急ぐ。

 

この「書写人バートルビー」の一編、それ自体が詩というものを語っているようにも思える。