2023年7月21日~24日  未来の戦跡地めぐり 青森・下北半島編  その3 六ケ所村

7月24日  あさこハウスで会ったおじさんが、「俺は六ケ所のことなら詳しいぞ、なんでも聞け」と言う。

「六ケ所のどこにまず行ったらいい?」

そう聞いたら「泉田稲荷神社に行け」と言う。

「六ケ所にも用地買収に応じなかった家があるんだ。新納屋の泉田稲荷神社。そこに行けば、全部わかるぞ」

 

 

六ケ所村をめざして、東通をゆく

道の両脇の林の向こう側に原発施設があるはずなのだけど、見えない。

大間も、東通も、六ケ所も、こうして走っていく道からは見えない。

ことさらに見に行かないかぎり。

 

 

ここが新納屋。泉田稲荷神社。

核燃料サイクル施設などが建設されているむつ小川原開発地域において唯一住民が暮らし続けていた新納屋部落の氏神様。後に集落は買収され、70代には約90戸あった住民のほとんどは土地を明け渡しましたが、住人の故小泉金吾(2010年・享年82歳)は核燃料基地の村となりつつある開発用地内で、85年からはただ一軒、最後まで移転に応じることなく抵抗を続けました。先祖の意志を継ぎ泉田神社も守り続けました。泉田稲荷神社は六ヶ所再処理工場反対の象徴とされている神社で、平成13年6月10日修繕改築。毎年6月10日を例祭日とし、反対運動の方々が集う神社として知られ、社殿には賛同者・協力者の名が連ねられ、その全員が了解しないかぎり、神社の解体・移転等はできないことになっており、これにより再処理工場の予定地は内陸へ移転せざるをえなくなったそうです。平成30年には全国反核有志らによって「泉田稲荷堂」の幟旗が寄贈されています。

 

webサイト 「くぐる鳥居は鬼ばかり」より

 

この地で舞われていた権現舞は、今は住民が移転した先で新山権現舞保存会によって保存継承されているという。

泉田稲荷神社ではもう舞われないのだろうか。

ここでこそ反閇をしなければならないようにも思う。

新住地では権現舞は共同体再生の躍りになっているのだろうか。

 

www.daily-tohoku.news

 

村の由緒はここに刻まれている。

 

血と汗の開拓の記録を刻んだ碑文。

新納屋部落は明治六年三月十日小泉金助 田中丑蔵両氏の当地移住に依って大平洋岸の砂丘地に地曳網による鰯漁業を営む集団網場に始まり 以来沿岸漁業を以て生計を立ててあったが大正末期より昭和の初めにかけて機械化漁業の圧迫によって急激に漁獲量を減じ生計の窮乏は年と共に加わり漁夫出稼等で辛うじて命数を保つた程の惨めな状態で有った 耕地を有する者当時三十余戸の内二割に満なかった 由来一望漠々として人の姿を見ず不毛の名を残すのみの山野にこの地を相して開拓に心を潜めた工藤栄一 沼田正の両氏は元平沼地区御料地の原野と米内山家の権利譲渡を受け昭和六年十二月工藤農場を創設し二期に亘り工事を進め昭和十二年八月遂に水田百三十三町歩畑三十町歩の開墾を完成するに至る この間百難千苦雲霧よりも多く其の因厄は実に言語に絶せしも不撓不屈この難事業を克服し又部落を挙げて努力を傾け人は和を供して萬頃の美田現出し不毛の汚名を消すことが出来た その後も部落挙げて耕地拡張に全力を注ぎ現経営総面積二百五十八町歩内水田百四十八町歩畑百十町歩之を耕作なす者八十六戸を算するに至る 又先住者の遺名を永遠に伝えると共に部落の氏神として昭和十八年七月二十七日清祥の気漲る社日を選び泉田稲荷神社と稱号し改築し落成の式典を挙ぐる 茲に相図り開村百年を記念し其の遺業と芳徳の概略を碑に刻み泉田稲荷神社の境内の丘に建て之を後世に伝う 

昭和四十七年十月十日 新納屋部落一同建立 

杉山武書 

十和田市十一丁目 加賀沢石材店刻

 



この家が移転に応じず、唯一残っている家なのだと思う。

 

家の前にある、北新納屋バス停 

六ヶ所村尾駮上弥栄。ここから周囲を見回す。六ケ所の今を見る。



石油備蓄基地を遠望

 

手前の黒いのは、すべてソーラーパネル

 

ここにも並び立つ風力発電。すべての土地は電気のために。

 

原発労働者住宅。

 

六ケ所村内のファミマに寄った。

4リットルの容器の焼酎が何種類も売られていた。お酒の種類は多い。

カー製品が売られているのも、珍しかった。

ここに労働者として単身で暮らす男たちの暮らしを垣間見る。

 

 

これは青森空港構内にあったパネル。