福井県勝山 平泉寺白山神社 (この件、勉強中。記述はメモに過ぎず)

奈良から新潟・柏崎に行くのに、白山神社に立ち寄ることにした。

泰澄開基の平泉寺白山神社

ここの御手洗池(みたらしいけ)で修行する若き泰澄の前に、白山の神・十一面観音が現れたのだという。

 

今回は特に予備知識もなく訪れたのだけれども、

そしてここは今ではすっかり

「兵どもが夢の跡」状態の苔むした史跡でもあるのだけど、

(一応神社ではある)

「兵どもが夢の跡」というのは決して比喩ではなく、実際にかつては僧兵どもが暴れ、

ここに集った僧たちは、世俗のものよりももっとすさまじく権力志向が強かったようにも思われる生臭い歴史を持つ寺であり神社であったことを、ここに来て知った。

 

寺であり神社であるというのは、明治以前は神仏習合であるから平泉寺であり、

神仏分離によって白山神社となった、ということを言っているに過ぎない。

 

この勝山一帯で、戦国時代には朝倉氏と同じくらい権勢をふるい、

一向一揆衆と対立したすえに、一向一揆衆に寺を焼き払われるという、

その歴史的生臭さぶりに加えて、

今現在の神社の案内版もまた明治以来の世俗権力におもねるような書き方になっていて、よろしくない。

 

明治維新に際し政府の神佛分離令により長年の神佛集合の姿を脱し、本来の白山社に復し今日に至っている。

 

本来の白山社ってなんだ?

 

以下、参考資料

神道集」巻第六

白山権現

そもそも白山権現とは、北陸加賀国白山の雪山に跡を垂れ給へり。 かの御山と申すは、千歳の寒氷氷結て解けず、四節の名花は一時に競ひ開く云々。
[中略]
今顕れ始めたてまつりし事に付て両説有り。 一の記には、元正天王の御時、霊亀二年丙辰年白山権現は顕れ始めたまへり。 この帝は日本四十四代、女躰なり。 諸国国分寺はこの御時より始れりと云々。
一の記には、光仁天王の御宇、宝亀二年辛亥年、泰澄大師これを顕したてまつりたまへり。 この帝は人王四十九代にて御在す。
[中略]
およそ白山権現とは、大御前は十一面観音なり。
小男地は本地は阿弥陀なり。 因蔓陀羅の図なり。
別山大行事は本地は請観音なり。
五人の王子御在す。
太郎は剣ノ御前、御本地は大聖不動明王なり。 この仏はこれ三界接領の悪魔降伏の生生にして加護の尊なり。
[中略]
次郎王子は本地虚空蔵菩薩なり。 香集世界には補処の大士、花翼国土定恵の御弟子なり。
[中略]
三郎王子は本地地蔵菩薩なり。 この仏はこれ報恩経に莚には、補処の大士なり。 無仏世界には引導の上首なり。
[中略]
四郎王子は毘沙門天王なり。 毘沙門の本地は文殊なり。 文殊は三世の覚母なり。
[中略]
五郎王子は本地は弥勒菩薩これなり。 この仏はこれ賢劫第五の如来、当来三会の教主なり。

 

 

平泉寺白山神社を訪ねて、戦国時代に平泉寺を焼き打ちした一向一揆衆のほうにより興味が湧いた。

 

なんとなく伝え聞いている被差別部落白山神社の関係ももっときちんと知りたいと思う。

アウトドア、木の画像のようです

 

 

 

自然、木の画像のようです

[御手洗池]ここで泰澄の前に十一面観音が現れたという。 

 

 

木、自然、水域の画像のようです

[御手洗池] 

 

 

正面にアウトドア、木の画像のようです

 参道を上ってゆく。正面に見えるのは二の鳥居。

その奥に本殿。

 

アウトドア、木の画像のようです

 平泉寺 本殿

 

、「敬 ä 由 創 谷 御 祭 神 緒建 处 る 倉 頼 朝 平 安 時 般 に い 地 当 大 当 地 児 が 養 越: 白 山 神 社 に 追 本 は 最 益 坊 五 知 社 遊 伊 三え 社 é 折 井 県 山 市 平 四 十 祖 は 澄」というテキストの画像のようです