閑話休題その2   富雄という地名の由来

富雄川沿いに住んでいる。2019年の夏からだ。

 

斑鳩やとみの小川の流こそ

絶えぬ御法のはじめなりけり  (新千載集)

 

 

今回は、富雄川は「登美の小川」と呼ばれるが、その「登美」とはどこから来たのかという話。

それが気になって調べはじめたら、ちょっとびっくり。

 

戦前の金鵄勲章は、ここ富雄にまつわる神話と深い関わりがあるではないか!

 

富雄の「富」は、かつては鳥見であり、その前は鵄(とび)、そしてそもそもが「登美」であったという。

 

日本書紀によると、「」は、神武天皇がこの地の豪族長髄彦登美彦)の戦いにおいて、金の鵄の力で勝利を得たことに由来するのだという。

まあ、ここから、国家神道的発想で軍人に与えられた名誉の勲章金鵄勲章も出てくるわけで……。

 

整理すると、地名の変遷は、登美→鵄邑→鳥見郷 鳥見庄→明治以降に富雄村となる。

しかし、敗者の名にちなんだ「登美」を、勝者が「鵄」という同音の漢字をあてて地名を更新するというのは、これもまた一つの記憶殺しなのか、

あるいは、敗者の記憶は「とみ」という音で地名にとどめられたのか。

 

思うに、そこに生きる者にとっては、「登美(とみ)」も「鵄(とみ)」も、「とみ」であって、それは「鳥見(とみ)」でもあり、大事なのは「とみ」という音であり、響きであり、その音を脈々と載せてきた声ではなかったのか、

 

この地の神を祀る神社として「登禰神社」の名が挙げられるが、もっと土や水や山や人に近いカミとしての「鳥見明神」がここにはあった(と私は思っている)。

このカミの小さな祠を私は富雄川沿いの海龍山王龍寺の境内で見ているのだが、その話は別の機会に。

 

以下、参考資料。

 

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 富雄町史より

 

 

<序章>

 その名も富なるよき文字にかざられるわが富雄町は、東西をそれぞれ西ノ京・矢田丘陵にはさまれ、ひと筋の「富の小川」(富雄川)の貫流するに沿った農村である。この地を鳥見谷とよんだ例もあるが、大きな谷間といえばいえよう。むかし奈良の人達は、この地を東山中に対して、生駒地方とともに西山中と呼んでいた。

 

 この地は、金鵄発祥の地という鵄邑であり、それから鳥見郷・鳥見庄となり、その中に自然村落は発展して近世郷村となり、明治廿二年にはそれらが合併して自治体富雄村の成立となった。その後の社会経済の発達は、昭和廿八年に富雄町を成立せしめたのであった。建国の伝承に語られた鵄邑は、国のあゆみと行を共にしつつ、富雄町へとあゆんだわけである。その富雄町のあゆみがここに記述される。(後略)

 

 

<第一篇 富雄村の成立>

一 鵄 邑

 金鵄発祥の地  日本書紀の神武紀戊午年(即位前四年)十二月丙申(四日)の条には、神武天皇長髄彦(登美彦)との合戦に、金鵄発祥のことを説いている。その地は、「長髄は是れ邑の本號(もとのな)なり、因りて亦以て人の名と為す、皇軍(みいくさ)の鵄瑞(とびのしるし)を得るに及びて、時の人仍(よ)りて鵄邑と號(なづ)く、今、鳥見(とみ)と云ふは是れ訛(なま)れるなり」、と説明されており、長髄邑なる村名が、この瑞祥によって鵄邑といわれるようになり、日本書紀のできた奈良時代では鵄邑がトミと呼ばれ、鳥見と書くようになったというのである。この神話ともいうべき伝承に説かれる鵄邑、すなわち鳥見の地がわが富雄町といわれる。

 

 鵄 邑  

神武紀に見える伝承の記事を、ただちに史実として採用することはできないが、これからつぎのことが説明できる。まず奈良時代に鳥見なる地があり、その地名は鵄邑なるものからおこったといわれていたことである。その鳥見の地は、概ね鳥見谷の一帯であることは是認されるので、その地名伝説の鵄邑がこの地帯とされるのである。

 

昭和十五年、紀元二千六百年奉祝記念に、神武天皇聖蹟伝称地が指定顕彰されたが、鵄邑は「ソノ地域ハ凡ソ北倭村及ビ富雄村二亘ル地方卜認メラル」とされている。思うに鳥見川に沿った北倭村の上村(或いは高山)から富雄村一帯、矢田村の城村(今の郡山市城町)あたりまでが鵄邑といわるべきところで、鵄邑がこれらの一帯、或いはさる一部かは知るべくもないから、鵄邑がかく指定されたことは妥当といえよう。

 

 鵄邑はもともと長髄と呼ばれたといわれるが、もちろん明らかではない。しかしこの鳥見の地、或いは鵄邑において、大和の南部から北部に発展して来た大和朝廷に対抗する一大勢力があったようである。大和朝廷とこの勢力との決戦がおこなわれたが、この首領が大和朝廷のいわゆる神武天皇に対して長髄彦と伝えられる

 

 

 

神 社  

 

(前略)

 鳥見邑の惣社(鎮守)として考えられるものは登彌(とみ)神社である。しかしこれはわが国家組織が固まって来た時代のことである。鳥見邑では鳥見氏と称する首長(或いはいわゆる長髄彦の後裔とでもいえる)に祀られたものがこの登彌神社であろう。

 

鳥見氏はあまり発展せす、次第に消滅してしまうが、その神社はのこり、式内社として官社の位地にあつた。さてこの登彌神社は、いま大字石木にある登彌神社とされる。このことは、地誌の白眉と称せられる江戸時代の「大和志」(一七三四編集)に既に説かれている。

 

これに対して、登彌神社は北倭村大字上村の長弓寺の境内にある天王社であるとする明治時代の地誌「大和志料」の所説がある。これが断定は至難である。

(後略)