六ケ所村をめぐる言葉  メモ  足尾鉱毒ー朝鮮窒素ー六ケ所を結ぶ

1969年8月 植村経団連会長

(開発予定地は)豊富な水資源と広大な土地に恵まれており、しかも公害の心配がないうえ、地価が安いのが魅力だ。

 

 

1971年 むつ小川原開発株式会社(三沢の地上げ会社) 伏見社長

開発がなければ、百姓はみじめだったよ。いまは昔のように娘は売れない。だから土地が娘の代りだよ。みんなおれたちのような”救いの神様”が、なんで自分のところにこないのかな、と思っているんだ。

 

 

1971年3月 財団法人むつ小川原開発公社設立 民間に代わって用地買収代行

当時の職員の回想  p73

かつて、公社が発足した当時、県庁の機構上からこの公社は、関東軍の再来ともいわれたものであった。事実、この関東軍は関係者の期待にたがわず、強固な団結力と行動力をもって勇猛果敢に戦った精鋭部隊であった。

 

農民は、いわば「匪賊」だった、と鎌田慧は書く。

 

 

1971年4月 むつ小川原開発株式会社(国 青森県 財界150社による設立) 

初代社長安藤豊禄(経団連 国土開発院長。かつて朝鮮で地域開発に携わる。)

――規模が大きいことのメリットはなんですか・

「これはね、いちばん大きいのは、公害を適当に配分することができるといいますかな、平均していちばんすくない公害ですむと、(後略)」

――巨大な地域なら、公害は発生しないのですか。

「発生するんですが、それはおそらく東京の何分の一でしょ、おなじ設備をやっても、そこがちょっといいとこですよ。公害でいいというのは、地図でみればわかるように、西と東が海になって空いてるでしょ。(後略)」

 

 

六ケ所村村長 寺下力三郎

(この人は一九三九年に朝鮮窒素に勤め、植民地の現実を見ている。

 植民地の現実に幻滅して1940年に帰国、養蚕指導員として足利に行き、足鉱毒の無惨な跡を見る。渡良瀬川氾濫後の田んぼに広がる白い沈殿物、足尾鉱毒

 

ーー村長としては先頭にたって反対する、ということですね

「そういうことですな。(中略)レベル以上を対象にこの開発計画に対処するか、それとも水準点以下の村民を基準にして開発計画と取り組むかと。(中略)ここでなければ暮らせない人間もたしかにあるものですから、その連中を主体に(後略)」

「国のほうでは、人柱とまでいかなくても、ここの四〇〇〇人や五〇〇〇人の人間は、あまり意に介してないようなフシもあるようですナッ」

 

 

寺下村長の植民地の記憶

春飢という言葉をこのとき知らされた。農民たちは、二〇戸、三〇戸とまとまって暮していたが、地主以外は、押すと倒れるような粗末な小屋に住んでいた。

歩きまわっているうちに、寺下さんは次第に工場建設が付近の農民たちを犠牲にした現実をしるようになった。このあたりにいた商人たちは場末へいってしまった、と古参の労働者がいうのも耳にはいった。開発する側と開発される側の断絶に気づかされたのである。

 

六ケ所村へ帰ろう、と決心した。あまりに植民地的すぎる、との憤りがあった。「五族協和」などといっても、朝鮮人を蔑んでいるだけだった。こんなところにいては人間が駄目になる、といたたまれなくなった。

 

「オヤジどんが」と彼は鹿児島弁でいった。職場には鹿児島県出身者が多かったからだ。「オヤジどんが、内地へ帰られますと、またあしたからいじめられます」

 悄然としていた崔青年の表情を、寺下さんはいまなお鮮明に記憶している。相手の名前さえまったく気にもとめなかった植民地の工場では、朝鮮人と日本人とのきわめて稀な交流、といいえた。

 

 

1971年1月1日 六ケ所公民館発行「わかくさ」 寺下村長の年頭の辞

「へき地とさげすまれ、へん地と笑い物にされはしたが、この土地で、幾百年とあい助け合い、ほそぼそと暮らしてきたわたしたちです。自分一人がよいことをするために、隣人を不幸にすべきではありません」

 

 

 

新全総閣議決定 1969年6月

寺下村長誕生 1969年12月

 

「開発というのは、どうしても現地の弱い人間を食って太っていくもんだ」

それが、興南、足尾、六ケ所村とむすぶ寺下村長の認識であり、政治信念となっていた。

 

 

 

1972年7月  寺下村長 衆議院建設委員会での言葉

(この言葉が国会の場でも、その外の世界にも届かないことの絶望を想う)

 

わたしは昭和十三年に北朝鮮ではたらいたことがございます。日本が大陸へ進出中のころでございます。その体験からこの開発の動向をみて直感しましたことは、いまでは忌まわしい記憶となったあの進出のやり方と、100パーセントとは申し上げられませんけれども、その手口はよく似ている、こういうことでございます。植民主義者といいますか、侵略者とでも申しましょうか、そうした人たちは現地住民に対話を必要としなかったわけでございます。

 もしあったとしても、現地の住民の反対の意見は聞く耳をもたない。民主社会における対話とは全く縁の遠いやり方であったわけでございますが、この開発でも、第一に開発の内容は全く巨大な虚構であるということでございます。こうした虚構を前提としたものに対話も合意もあるはずがない。

 またさらに重大なことは、自然破壊の前に人間破壊が意識的に先行して行われていることでございます。(後略)   p247

 

 

 

<おまけ>

墓前に笊に盛った馬糞を供える。

 = 地主に苦しめられた小作人たちの悲しくもユーモラスな抵抗の方法。(鎌田慧