野添憲治『開拓農民の記録 日本農業史の光と影』(現代教養文庫) メモ

光と影  と副題にはあるけれど、開拓農民の記録を読めば、そこにあるのは、ほとんど闇の一語に尽きるではないかとすら思われる。

 

国策で満蒙開拓に送り出され、敗戦後に帰ってくれば、やはり国策で、どうしようもない荒地や、山奥を開拓地としてあてがわれ、ついには日本には生きる場所があいがゆえに、移民として海外に送り出されもする。

公害を垂れ流してもよい工業用地や原発の用地として目を付けられて、力ずくで、あるいは札束で顔をはたかれて開拓地を追われる開拓農民もいる。(いま、ここで、私は六ケ所村のことを念頭に置いている。野添さんは六ケ所のことは書いていないけれど)

そこにはいつも権力の都合と人々をコマのように動かすための甘言がある。

 

国家というのは、権力を握っている者たちというのは、経済を握っている大資本というのは、人の命をいったい何と思っているのかと、その答えはあまりに分かり切ったことで、わざわざ言うのもばかばかしくなるような、見るも無惨な光景の中に、”開拓農民”は放り出されている。(実のところ、それは”開拓農民”だけではない、すべての命がそうなのだということ。みんな自分だけはそうじゃないと思い込まされているけれど)

 

一九三六年三月に成立した広田内閣は、その「国策基準」のなかに南方進出とあわせて、満蒙への国策移民のいっそうの拡大を組み入れた。この時にたてられた満蒙への移民計画は、二〇年後の満州国推定人口を五、〇〇〇万人とし、その一〇パーセントを日本人によって占めようとしたもので、二〇ヵ年の間に一〇〇万戸を移住させようという厖大なものであった。(中略)この一〇〇万戸計画によって、はじめて「軍部と独占資本の癒着による国家総動員体制」が確立されたのであった。 P85

 

 

もう一つは、「鉄道路線と産業の推進によって、日本の対満投資はいちぢるしく増大し、(中略)しかもその投資は満鉄をとおしておこなわれたことから、満鉄の経営内容を圧迫するようになってきた。そのため、国防上の必要からさらに延長させる必要のある新路線の採算をとるうえにも、鉄道沿線への大量移民と、それによって生する産業開発がどうしても必要だったのである。 P86

 

日本の戦後開拓は一九七四年五月に通達されtあ「開拓地総点検実施要領」の制定をもって、一般農政への移行措置がとられて終結した。敗戦後の食糧不足や、都市部の戦災者や外地からの引揚者たちの生活する場として大きく貢献した開拓行政は、この時代に至ってもまだ安定した営農ができる開拓農家を生んでいなかった。(中略)それなのに政府は助成して独り立ちしていける農家に育成しようとせず、半ば強引に一般農政に移行させた。これで「戦後開拓」は終わり、特別な助成がなくなった開拓農家は、それまで以上の苦しい生活に追いやられていくのである。 P274 あとがき

 

高度経済成長を底辺で支える大量の肉体労働者は農山村から引っ張り出してくるよりないと考えた政府と資本側農民の六割を離農させて労働者にすることをねらった能郷基本法を一九六一年に制定した。(中略)当然だが、開拓地もねらわれたのである。政府と資本側はなんとしてでも農山村から農民を追いだそうとしたが、田畑を手放してまででようとはしなかった。最後に頼りになるのは田畑であることを、農民は知っていたからだ。そのかわりに出稼ぎが急増し、最盛期には八〇万とも一〇〇万ともいわれる出稼ぎ者が農山村から出た。   P275~276 

 

政府や大企業はさらに遠くへ視点を向けた。離農ではなく出稼ぎで生活を安定させる方法を農民が選んだのを見ると、さらに深い部分から人掘りをはじめた。それは出稼ぎ者よりも長期的に安定した労働力として、農山漁村の中学校や高等学校の新卒者を求めたのである。集団就職の専用列車が走りだしたのは、一九六三年であった。  P276

 

こうやって書き写していると、だんだんと暗澹とした気分になるのと同時に、明確に見えてくるものもある。

 

この国は、つねに、弱者に一番の重荷を背負わせることで、経済を支えてきたのだと。この国は、つねに貧しかったのだけれど、その貧しさを周縁の人々に背負わせることで、見かけ倒しの豊かさお享受してきのだなと。

 

この国だけではない。この世界自体が貧しいんだな。

奴隷がいなければ、植民地がなければ、踏みつぶしても殺してもいいと誰かが勝手に決めた民がいなければ、回らないのが私たちのこの世界であり、この世界のシステムなんだな。と、つくづくと思う。

 

奴隷でも、植民地の民でも、踏みつぶされるだけの虫けらでもない、命が生きるべき世を、じっと思い描く。山川草木鳥獣虫魚とともに、ぐるぐるとつながりあう命の光景を、真剣に思い描く。