富雄川沿いの、真弓山長弓寺へ。 十一面観音を確かめに。  (備忘用メモ)

2020年4月28日。真弓山長弓寺再訪。

初めて訪れたのは昨年の八月だった。

そのときも、伊弉諾神社の一の鳥居をくぐって入ってゆくこの名刹に残る廃仏毀釈の跡のことを記録している。

いまは伊弉諾神社とされている、寺の境内の中にある神社が、明治以前は牛頭天王宮であったということ。

境内には役行者が祀られているということ、

不動明王だらけの寺であるということ(真言宗だからね)等々、

 

コロナ禍の今は、ここに牛頭天王宮があったこと、そして薬師院があることに、やはり心が向かう。

 

実を言えば、昨夏は、牛頭天王宮の意味するところまでは考えが及んでいなかった。

ただ、もともと祀られていたカミが、廃仏毀釈の折りに生き残りをかけて記紀神話の神に置き替えられた、という「廃仏毀釈あるある」の変化のほうにばかり思いが行っていたのだった。

 

そして、ここのご本尊十一面観音。

昨夏に訪ねた折は、本堂は閉じていたので、この像を拝することはなく、また十一面観音が意味するところも、関心の外。

生駒市デジタルミュージアム より

 

 

まずは寺の公式HPから、寺の歴史。

 

 奈良時代、土地の豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)とその養子であった長麿(ながまろ)が、若年の聖武天皇に従ってこのあたりで狩猟をした時のこと、森より一羽の怪鳥が飛び立ったのを見て、親子でこれを追っていました。この時、養子である長麿(ながまろ)が誤って父・長弓(たけゆみ)を射殺してしまいました。聖武天皇はこのことを深く哀しみ、行基に命じてこの地に小さな御堂を建て十一面観音をおまつりになって長弓(たけゆみ)菩提を弔いました。また、自らも仏教に帰依され、この寺を深く信仰なさいました。時に神亀5年(728年)、聖武天皇が28歳の頃だと伝えられています。本尊十一面観音の頂上の仏面は、聖武天皇の弓の柄で彫られているという逸話が残っています。 平安時代には、桓武天皇の頃、藤原良継が伽藍を整備し丈六(じょうろく)の阿弥陀、釈迦、四天王を安置して崇敬されました。

 

 聖武天皇行基とくれば、同じ富雄川沿いの古刹霊山寺と同じ。昨日訪ねた王龍寺もまた聖武天皇の勅願によるとの言い伝えあり。

 また、この部分については、『十一面観音巡礼』において白洲正子が、長弓寺の寺伝によるものとして、このように書いている。

 かつてこのあたりに怪鳥がいて、田畑を荒らすので、聖武天皇が「鳥見」をおいて監視させた。よって、登美の小河が「鳥見川」と改称されたが、依然として怪しい鳥が出没するので、天皇みずから狩に来られ、首尾よく怪鳥を射て落した。その時怪鳥は忽然と金色の鷹に化し、仏法擁護の神であることを告げたので、行基に命じて、白檀の十一面観音を祀り、牛頭天王を以って鎮守とした。観音を造るに当り、天皇所持の弓をもって、頂上の仏面を彫らせたので、山号を「真弓」、寺号を「長弓寺」と名づけたとある。 

 

 

さらに、白洲正子はこう書く。ここの部分とても大事。

何やら神武天皇の金鵄伝説をもじったように聞えるが、古くはこの地方を「登美」と呼び、長髄彦支配下にあった。長髄彦は一名登美彦ともいい、「登美の小河」の名もそこから出ている。とすれば、いよいよ神武天皇の故事を元に作られたことは確かで、神武が聖武になり、登美彦が鳥見に変り、金の鵄が金の鷹に化けたのであろう。

 

これについては、昨日の王龍寺でも実は気になるところがある。

それは、戦前の軍国主義の時代に登美神社がどのように語られたかということをめぐることだ。

ちなみに、長弓寺の牛頭天王宮にもまた「登美神社」説がある。

もしかしたら、金鵄勲章の、あの「金鵄」のゆかりの地はどこかということをめぐっての、記録の書き換え、あるいは「金鵄」の故地の争奪戦めいたことが富雄川流域の寺社で繰り広げられていたのかもしれない。

これについては、またあとで。

 

 

さて、長弓寺の案内に戻る。

 また、弘法大師がこの地を訪れた際も、善女龍王を感得されたと伝えられています。その後堀川天皇が、伽藍を修復し大般若経六百巻を施入して、世の平安と諸人の快楽(けらく)を祈られました。しかし、平安末期・安徳天皇の御代には火災にあったと、東大寺資材帳に記録があります。

 

弘法大師ー善女龍王のくだりも、霊山寺と似通う。

 

その後室町時代応仁の乱で、山名宗全の落人による重宝破壊、戦国時代には織田信長によって寺領が没収、明治の廃仏毀釈(きしゃく)によって寺運は衰退の一途をたどりましたが、昭和10年の大解体修理を経て今も本堂が現存しています。 (後略)

 

 応仁の乱、戦国時代、廃仏毀釈と政治に翻弄されたことは、このあたりの寺社に共通するところ。

 

 というわけで、基礎知識をもう一度頭に入れて、伊弉諾神社の一の鳥居をくぐって長弓寺へと入ってゆく。

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 塔頭たっちゅうは20ケ院あったと伝えられますが、現在は円生院えんしょういん宝光院ほうこういん法華院ほっけいん薬師院やくしいんの4坊が残っています。

 現在は、法華院、円生院、薬師院、宝光院の4つの塔頭があるが、昔はもっと広大な境内地に20院の塔頭があったという。

 

 

 入口にはまず宝光院 地蔵堂写真

 

 

 

境内に入り、本堂へと向かう坂の右手には薬師院。

 

 

 

この中には、毘沙門天不動明王が祀られ、大黒天も恵比須さんも置かれている。

毘沙門天ー大黒天ー恵比須の三点セット。

 

 

 

さらに坂をのぼると、(といっても数メートルの距離)、伊弉諾神社となる。

  

 

 

寺蔵の『長弓寺縁起』によると、天平十八年(746)同寺建立に当たって牛頭天王社・八王子(若宮)社を祀って鎮守としたとある。

 

そして、由来にあるように、廃仏毀釈の折りに牛頭天王を、牛頭天王垂迹神である「素戔嗚」に置き替えた、ということだろう。

 

本来は疫病退散を祈願する牛頭天王社であった。

後付けの記紀の神々は牛頭天王がこの地で生きのびるための便法。

 

入口の灯篭には、 「牛頭天王宮」「文化八年」とある。

 

オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ

連れの山伏、唱える。

私も唱える。

 

 

 

 

 そして、本堂。

 

 

 残念ながら扉は閉ざされ、十一面観音は拝観できず。たまたま通りかかったご住職に尋ねてみれば、正月と8月に御開帳だとのこと。

 

本堂の裏手、右側へとまわってみれば古びた池と祠がある。

弘法大師がこの地を訪れた際も、善女龍王を感得された」と由来にある、その「善女龍王」の祠だ。

 

水の神、龍神

龍神のいるところには、同じく水の神 十一面観音。

 

 

 

本堂左手には、役行者

真言宗の山であるここ真弓山は、修験道場であったはず。

役行者の脇には江戸時代の年号が彫られた西国33か所の観音像が山のように積み上げられている。これも、本来は、ぐるりと巡れるようになっていたはずだ。

 

 

 

 

 

 本堂から坂を下りていって、不動明王堂を覗く。

毎月28日はお不動さんの日。ここで護摩を焚いての祈祷会がある。

 

 

 

 

 

そして、今日は、長弓寺の境内の飛び地である「真弓塚」へと足を伸ばす。

長弓寺本堂の背後、真弓山を登ってゆくことになる。車で行けば、4~5分の距離だ。

山と言っても、長弓寺の背後は今では住宅地。住宅地のなかにポツンとある小高い丘の上に、「真弓塚」はある。

まずは、「真弓塚」について予習。

 

真弓塚

小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)の墓といわれる塚。真弓長弓は富雄の豪族で、息子の長麻呂を連れて聖武天皇の鳥狩に従っていたところ、運悪く長麻呂の射た矢に当たり、命を落としてしまう。その墓が当地に造られたとの伝承が残っている。また、真弓長弓の墓とする説のほかに弓を埋めたとする説もある。真弓塚は聖武天皇が真弓長弓の冥福を祈るために建立した長弓寺の飛び地境内であり、寺ゆかりの地と考えられている。

 (web「ええ古都なら」より)

 

 この伝承の他に、聖武天皇の弓の木屑を埋めた、あるいは「饒速日命(にぎはやひのみこと)」(注)の弓矢を埋めたとも言われている。

 

しかし、この塚の真の意味は、ここから大和平野が一望のもとに見渡せることにあるのではないだろうか。

「見渡す」は「治める/支配する」ことである。

『十一面観音巡礼』で白洲正子も書くとおり、真弓塚の伝承は「どこまでも武器が物語の中心をなしている」。

 

 

(注)饒速日命

 

世界大百科事典 第2版の解説
 
日本神話にみえる神の名。物部氏の祖先神。櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)命とも呼ばれる。名義は敏速に活動して豊穣を実現する穀霊の意。天磐船(あめのいわふね)に乗って天から大和国に降り,長髄彦(ながすねひこ)の妹,三炊屋媛(みかしきやびめ)(トミヤビメとも呼ばれる)と婚した。神武天皇の東征にあたっては,みずからも天津神(あまつかみ)の子であることを証明し,長髄彦を殺して帰順した。《旧事本紀》には天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊の子とあり,降臨のようすが記されている。

 

真弓丘

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、金鵄勲章と登美神社問題である。 

以下の資料は、『生駒市史』から。

 

<資料五>鴉神社由来記(昭和15年8月5日発行 編集者飯野純道)

             ※飯野純道は、王龍寺の当時の住職。

 

 王龍寺古文書二依レバ、聖武天皇、此ノ地二狩猟セラレ鳥見ノ古跡ノ衰頽ヲ嘆キ給ヒ 鴉神社ヲ再興シ 王龍寺モ併セ造ラレシニ 戦国争乱ノ間兵火ノ為二焼失セリ。

 

其ノ状 延享三丙寅(1746)年ノ 寺院本末帳二

鎭守鴉之三社、天神、地神、神武社、(四尺ニ六尺、花表一間ニ八尺)、神武天皇 鴉之瑞ニ依テ位ヲ保チ 世ヲ治メ給フ 依テ之ヲ鴉谷ト號ス 神武四年天下ニ詔ヲ下シ鴉之霊社ヲ鳥見山中ニ立ツ 高祖天神を郊祀シ大孝申へ給フ 霊社之地ヲ號シ 上小野榛原下小野榛原(カミツオノハイバラシモツオノハイバラ)ト曰く 故二 後ノ世 二名山(ニメウヤマ)ト號ス・・・・・聖武天皇ノ勅願ニ依リ 天平七年七 堂伽藍寺院多數建立アリ 其後兵火の為ニ破壊シ纔二 後二 奥院一宇相ル」とアリ。

 

又同年代頃ノ和州添下郡鴉谷二名村海瀧山王龍寺縁起ニハ「・・・・・鎭守鴉神社ハ 地神五代 鸕鶿草葺不合尊 (ウガヤフキアヘズ)尊 第四皇子人皇第一代神武天皇・・・・・鴉ノ奇瑞ハ 天照大神ノ感慶ナヲ敬ヒ 其所ヲ鴉谷ト號シ給フ、同橿原二都ヲ開キ給ヒ 神霊ノ社ヲ 鳥見山中二建テ、鴉大明神卜崇メラル云々」。

 

とりあえず上記で分かるのは、江戸時代半ば頃に、王龍寺の鎮守として「鵄(鳥見/登美)神社」があったということ。その由来については、兵火で焼失したのちの長きにわたる荒廃ののちに王龍寺が再興されたときに新たに作られたものとすれば、当時の記紀の知識等を動員し、神武天皇伝説と絡めてそれなりのものを作ったのではないか、とも思われる。

 

又大字二名ナル語字二関シテハ「鴉大明神ヲ崇メラル、其地ヲ上ッ小野榛原、下ッ小野榛原卜云フユヘ二名山ト號ス。民屋ノアル所ヲ二名邑卜云ヒ傅ヘラル」トアリ。

 

尚此ノ二名二就イテハ寛永十癸酉仲春ノ古書ニ「二名と云ふ譯は此所を上小野波利原、下小野はり原と云ふ名前二ヶ所有故也」トアリテ 此ノ地古代ヨリ金鴉發祥鳥見山中ノ靈蹟ナル事ヲ物語リ、王龍(黄立、王立)ノ名ノ偶然ナラザル事ヲ察セラル

 これは、王龍寺の位置する「二名」という地名の由来を語った部分だ。そして、二名では、「鵄(登美/鳥見)大明神」が崇められていたということも。

 

 其ノ他二古図、古伝、古記録、数多ナルモ、正徳ノ昔(1711~1716) 郡山藩主本多忠直公ヨリ此ノ寺二下サレタル古地図ニモ鴉神社ト明示セラレ 今ヤ武神ヲ祀ル、救国ノ神霊、金鴉ノ社トシテ、世人ノ信仰日ヲ追ツテ増シツヽアリ

 

王龍寺再興当時の古地図に鵄神社がきちんと示されている、というわけだ。

その鵄神社が、神武天皇ゆかりの社かどうかは、江戸時代に寺伝を製作した者による想像の産物、もしくは権威づけのための創作の物語なのではないかと私はひそかに思う。

 

そして、そんな物語を持つ寺は、皇紀2600年にあたり、時世にのまれるようにして、神武天皇ゆかりの社を持つ、皇国の寺となってゆく。

 

中興開祖梅谷禅師ハ元禄ノ昔、此ノ鴉ノ古跡ヲ探りテ中幕既二尊皇ノ大義ヲ唱セリ。

 

四代法源和尚又尊皇ノ心篤ク 大和ノ談山神社二参拝シテハ、臣鎌足ノ社ガ斯クモ壮麗ナルニ 人皇第一代神武天皇ノ山陵及ビ其ノ霊社カ 未ダ不明ナルハ恐畏ノ至リト慨嘆シ 鴉神社ノ盛大二 カヲ尽セリ

 

皇紀二千六百年ノ聖年ト共二 次第二世二認メラレシ此ノ山峡幽谷ハ 橿原ノ恩地トシテ、大和ヲ訪レル者、必ズ此ノ聖地二杖ヲ曳キ、往古ノ神霊二跪拝シテ、日本人タルノ誇ト自覚ヲ喚起スルニ絶好ノ清境ナリ。

尚附近二古跡、名勝多ク、一度訪レバ、一木一草二古歌古詩古伝二昔ヲ偲ベバ、古キ日本ノ姿ヲ吾等ノ眼前ニ彷彿セシムノ感アラン。

 

 

 

~解説~ (『生駒市誌』より)

 これは王竜寺にある鴉神社を顕彰するために作られた由来記である。戦時中のこと故、尊皇の大義強く説いている点がうかがわれる。王竜寺は生駒町上村のすぐ南隣するところであるので、その一部を資料として収録した。鳥見の霊地の一候補地として戦時中人々にはやし立てられた。今この地を訪れると苔むす祠が淋しく残っていて、そぞろ時代のうつりかわりと盛衰変化を思わせる。この感じは他の鴉山伝承地の一つ一つについても同じである。

 

 

白洲正子は、昭和40年代の末頃に王龍寺を訪ね、ヘルスセンターのように見えて入る気にもならなかっ霊山寺に比して、この王龍寺のひっそりと草生した風情、摩崖仏の十一面観音に感動し、この寺の草むらの中の小さな祠の「登美神社」(と白洲正子は書く)に心ひかれ、こここそが登美一族発祥の地にちがいないと確信する。

 

その「登美神社」も、それから半世紀近くが経った今では、打ち捨てられていると言ってもいいような荒れようだ。

 

いやいや、そもそも、白洲正子が訪れたときには、すでに打ち捨てられている状態に近かったのではないか。もしや、その寂しさを素朴さに白洲正子は誤解したのではないか。

 

皇国の「鵄神社」は、日本の敗戦とともに権威も地に落ち、それと同時に「鵄神社」に祀られていた本当のカミである「鳥見明神」もまた、巻き添え事故のようにして人々から放り出されたのではないか、それは第二の廃仏毀釈に近いような出来事だったのではないか、とすら私は想像する。

 

日本の近代は、こうして風土のカミを繰り返し殺していたのではないかと。

 

王龍寺の本堂には十六羅漢像もずらりと並んでいたのだが、その隅に砲弾が一緒に並べられていたことを、境内で聞いたジュウシマツのツピツピツピツピという鳴き声とともに、いま、ふと思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

権力の源泉  (メモ)

自然の力を、自然のままに置くことなく、

火を盗んでくるように、

神聖不可侵の自然の奥底の力を盗み取り、

社会の中に持ち帰る者が、

自然の力を「権力」として創りかえて「王」となる。

 

 

神聖不可侵の(もしくは、死の世界である)山中に入り込むことで、

力を身にまとう行者/修験者もまた、「王」と同様に、

自然から根源的な力を盗み取るものであるが、

それを俗世に持ち帰らない、山中にとどまりつづける、

という点で、修験者は「王」とは対極の位置に立つ。

 

 

しかし、自然から「権力」をつかみとるという点では、王も修験者も本質的には変わらぬのである。

 

と、中沢新一は言っているようである。

 

 

 

 

 

富雄川沿い 海瀧山王龍寺に十一面観音を観に行く。そして登美神社も。 (今日も走り書き)

2020年4月28日。

日々山伏が祈りを捧げに行く小さな滝と不動明王と十一面観音がいる王龍寺(黄檗宗)に、この日は私もついてゆく。

目的は、まずは十一面観音。そして、山伏が境内の中の小さな丘の上に見つけた「登美神社」。

 

 

 

 

王龍寺に行くには、富雄谷の谷底になる富雄川から生駒側へと坂をのぼってゆく、

途中、かつては辻々に立っていたであろうお地蔵さんが一か所に集められている祠がある。

ここだけでなく、他にもこのような祠はある。

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まずは王龍寺についての基本情報。寺のHPから。

 

王龍寺のあらまし

海瀧山王龍寺は、黄檗宗の寺院です。


黄檗宗は、江戸時代に、中国(明)の時代、隠元禅師によって日本につたわった、臨済宗のながれをくむ、禅宗のひとつです。京都府宇治市にある黄檗萬福寺大本山としております。


王龍寺は、伝説によれば、古く聖武天皇の勅願による古刹とされております。現在の黄檗宗の寺院として体裁がととのえられたのは、江戸時代になってからのことです。大和郡山の城主であった本多忠平公によって、元禄二年に堂宇が整えられました。現在の本堂は、その当時のものを残しております。
開山は、梅谷禅師です。梅谷禅師は、黄檗宗第二代木庵の弟子にあたります。


本尊は、石仏(磨崖仏)の十一面観音菩薩像です。つくられた年紀がわかる石仏として貴重なもので、南北朝建武三年)の作になります。これは、奈良市文化財に指定されています。
この他、奈良県の保護樹木・奈良市文化財(天然記念物)に指定されているヤマモモの古木(樹齢三百年以上)があります。

また、山門より本堂にいたる参道の周囲ならびに境内の山林は、奈良市文化財(天然記念物)に指定されています。現在まで残っている、市内での貴重な里山の自然林になります。

現在では、奈良市の西、富雄川の流れに位置する、自然環境を残した、古来の面影をとどめる古寺として、人々の信仰と憩いの場となっております。

 

公式HPには書かれていないが、

この寺はかつては、正月堂など「僧坊千軒」と云われるほど盛大だったが、後に衰退、戦国期に筒井氏の兵火で焼失したという。HPにあるように、江戸期に再び堂宇が整えられて復興。そのときに黄檗宗となった。

その広大だった境内の敷地のかなりの部分が、今は飛鳥カントリークラブ(昭和34年完成)というゴルフ場になっている。

その当時の経緯を記したゴルフ雑誌の記述によると、

昭和30年当時は、国道から歩いて農道を20分「まったくぞっとするような淋しい不便な土地でした」(初代河合利喜蔵社長の言葉)という状況、(王龍寺は)文字通りの隠れた名刹と化していた。」

 

その王龍寺へ。まずは本堂に行く。

 

この本堂は、崖に掘り込まれた十一面観音と不動明王を覆うようにして立てられているのだ。

 

 

 

お寺の方に鍵を開けていただいて、本堂に入る。祭壇の向こう側に、摩崖仏が見える。

 

 

 

しみじみとつくづくと見いった。素朴で、まことに優しげで、でも頑として譲れないものがある、というような表情をたたえた十一面観音。

不動明王も「おいら、不動だぜ!」と里の男の子がえへんと立っているような風情。(失礼をお許しあれ!)

 

 

この十一面観音と不動明王を岩に彫ったのは、きっと山伏に違いない、と私の旅の道連れの山伏が言う。

なるほど、十一面観音が彫られたのは、建武年間。南北朝の時代、吉野の修験が後醍醐天皇を支えて大活躍した頃のことだ。

不動明王は文明元年、応仁の乱の真っ最中。山と闇とけものみちに通じた山伏暗躍の時代。

 

本堂の裏は磐座。大きな岩の塊だ。この巨岩には水がしたたり落ちている。

しっとりと濡れている。水の流れを背後に背負って、本堂のなかに摩崖仏の十一面観音がいる。この磐座と堂内の岩はきっとつながっている。

 

巨岩の脇を小さな小川が流れ落ちてくる。

小川の前には、苔むした石。かろうじて「龍」と「大神」の字が読める。

龍神が祀られている。

この山の水神である「龍神」は、おそらく、水の神・十一面観音と同体なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

この水のさらに流れ落ちていくところ、本堂正面の階段を下りて行くと、小さな水行の場があり、そこに不動明王が立っている。

こちらも、えへん、おいら、不動明王。という顔つき。

富雄の谷の、素朴な里の、友達にもなれそうな、不動明王

 

 

 

 

この不動明王の行場と参道を挟んで向かい側の丘の上に、今はすっかり打ち捨てられているように見える「登美神社」がある。

すっかり存在感を失くしていたこの祠を見つけたのは、毎日この寺のささやかな修行場へとやってくる山伏だ。

 

祠には「鳥見大明神」とある。

 

 

この鳥見大明神を祀る祠は、『十一面観音巡礼』にはこう記されている。

 

お堂の手前の草深い小道を、右へ入ったところに「登美神社」がある。茅葺の小さな祠にすぎないが、磐境(いわさか)の大きさといい、お寺のたたずまいといい、登美一族の発祥の地は、ここに違いないと私は思った。おまいりする人は今でも

多いらしく、「草を刈らなくてはならないのですが……」と堂守のお婆さんはいっていた。

 

これは昭和の末の頃の話で、もう45年ほども前の話になる。

いつ頃から顧みられなくなったのかわからないが、この祠へとのぼってゆく小道は倒木で遮られている。

この土地(海龍山)の神、 鳥見大明神を祀るこの祠は、王龍寺の鎮守の社であったのだろうか、

 

十一面観音、不動明王龍神、行場と、修験の山であったのだろう痕跡が王龍寺には色濃く残っているが、この山の神たる鳥見明神の影は、ひどく薄い。それがなんだかとても寂しい。

 

霊山寺、これから再訪しようと思っている長弓寺、王龍寺とは富雄川を挟んで向かい側にある杵築神社と、どの寺社も修験の匂いを残している。

 

王龍寺から富雄川のほうに降りてくると、ちょうどそのあたりが湯屋谷なのだ。

つまり、熊野谷。

霊山寺には湯屋川が流れ、里人も体を癒す薬湯の湯屋が遥かな昔からあった。思えば、富雄川それ自体が湯屋川だと言ってもいいのかもしれない)

 

不動明王役行者がこの谷間に生きる人々の暮らしのなかに息づいていた頃を思う。

十一面観音を本尊とし、秘仏とする寺が川沿いに並び、人々が祈りを捧げていた風景を想い描く。

 

そもそも、杵築神社も、長弓寺も強力な疫病神たる牛頭天王を祀っていたのだ。霊山寺牛頭天王本地仏である薬師如来

 

登美の小川、富雄川、富雄谷、そこに暮らした民の生き難さと、生きてゆくための必死の祈りを想う。

鳥見明神に祈る者が消えていったことの幸不幸を想う。

 

富雄川沿いも、今では、白洲正子が歩いたころの草深い田園風景ではなくなり、まだ田畑も残ってはいるが、現代的な家々やマンションも建ち、道沿いに大型スーパー、ドラッグストア、病院、おしゃれなベーカリーにカフェ、ホームセンター、スターバックス、郊外型レストランも点々と並ぶ、近代的な風景。

 

忘れられた鳥見明神に、富雄の谷間の近代の幸不幸を想う。

 

明日は長弓寺に行く。

今年のゴールデンウィークは外出自粛のコロナ世界。私は神と仏だけに会いに行く。

これが私のコロナの日々。

祈りの日々。

 

 

 

 

 

 

 

 

閑話休題その2   富雄という地名の由来

富雄川沿いに住んでいる。2019年の夏からだ。

 

斑鳩やとみの小川の流こそ

絶えぬ御法のはじめなりけり  (新千載集)

 

 

今回は、富雄川は「登美の小川」と呼ばれるが、その「登美」とはどこから来たのかという話。

それが気になって調べはじめたら、ちょっとびっくり。

 

戦前の金鵄勲章は、ここ富雄にまつわる神話と深い関わりがあるではないか!

 

富雄の「富」は、かつては鳥見であり、その前は鵄(とび)、そしてそもそもが「登美」であったという。

 

日本書紀によると、「」は、神武天皇がこの地の豪族長髄彦登美彦)の戦いにおいて、金の鵄の力で勝利を得たことに由来するのだという。

まあ、ここから、国家神道的発想で軍人に与えられた名誉の勲章金鵄勲章も出てくるわけで……。

 

整理すると、地名の変遷は、登美→鵄邑→鳥見郷 鳥見庄→明治以降に富雄村となる。

しかし、敗者の名にちなんだ「登美」を、勝者が「鵄」という同音の漢字をあてて地名を更新するというのは、これもまた一つの記憶殺しなのか、

あるいは、敗者の記憶は「とみ」という音で地名にとどめられたのか。

 

思うに、そこに生きる者にとっては、「登美(とみ)」も「鵄(とみ)」も、「とみ」であって、それは「鳥見(とみ)」でもあり、大事なのは「とみ」という音であり、響きであり、その音を脈々と載せてきた声ではなかったのか、

 

この地の神を祀る神社として「登禰神社」の名が挙げられるが、もっと土や水や山や人に近いカミとしての「鳥見明神」がここにはあった(と私は思っている)。

このカミの小さな祠を私は富雄川沿いの海龍山王龍寺の境内で見ているのだが、その話は別の機会に。

 

以下、参考資料。

 

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 富雄町史より

 

 

<序章>

 その名も富なるよき文字にかざられるわが富雄町は、東西をそれぞれ西ノ京・矢田丘陵にはさまれ、ひと筋の「富の小川」(富雄川)の貫流するに沿った農村である。この地を鳥見谷とよんだ例もあるが、大きな谷間といえばいえよう。むかし奈良の人達は、この地を東山中に対して、生駒地方とともに西山中と呼んでいた。

 

 この地は、金鵄発祥の地という鵄邑であり、それから鳥見郷・鳥見庄となり、その中に自然村落は発展して近世郷村となり、明治廿二年にはそれらが合併して自治体富雄村の成立となった。その後の社会経済の発達は、昭和廿八年に富雄町を成立せしめたのであった。建国の伝承に語られた鵄邑は、国のあゆみと行を共にしつつ、富雄町へとあゆんだわけである。その富雄町のあゆみがここに記述される。(後略)

 

 

<第一篇 富雄村の成立>

一 鵄 邑

 金鵄発祥の地  日本書紀の神武紀戊午年(即位前四年)十二月丙申(四日)の条には、神武天皇長髄彦(登美彦)との合戦に、金鵄発祥のことを説いている。その地は、「長髄は是れ邑の本號(もとのな)なり、因りて亦以て人の名と為す、皇軍(みいくさ)の鵄瑞(とびのしるし)を得るに及びて、時の人仍(よ)りて鵄邑と號(なづ)く、今、鳥見(とみ)と云ふは是れ訛(なま)れるなり」、と説明されており、長髄邑なる村名が、この瑞祥によって鵄邑といわれるようになり、日本書紀のできた奈良時代では鵄邑がトミと呼ばれ、鳥見と書くようになったというのである。この神話ともいうべき伝承に説かれる鵄邑、すなわち鳥見の地がわが富雄町といわれる。

 

 鵄 邑  

神武紀に見える伝承の記事を、ただちに史実として採用することはできないが、これからつぎのことが説明できる。まず奈良時代に鳥見なる地があり、その地名は鵄邑なるものからおこったといわれていたことである。その鳥見の地は、概ね鳥見谷の一帯であることは是認されるので、その地名伝説の鵄邑がこの地帯とされるのである。

 

昭和十五年、紀元二千六百年奉祝記念に、神武天皇聖蹟伝称地が指定顕彰されたが、鵄邑は「ソノ地域ハ凡ソ北倭村及ビ富雄村二亘ル地方卜認メラル」とされている。思うに鳥見川に沿った北倭村の上村(或いは高山)から富雄村一帯、矢田村の城村(今の郡山市城町)あたりまでが鵄邑といわるべきところで、鵄邑がこれらの一帯、或いはさる一部かは知るべくもないから、鵄邑がかく指定されたことは妥当といえよう。

 

 鵄邑はもともと長髄と呼ばれたといわれるが、もちろん明らかではない。しかしこの鳥見の地、或いは鵄邑において、大和の南部から北部に発展して来た大和朝廷に対抗する一大勢力があったようである。大和朝廷とこの勢力との決戦がおこなわれたが、この首領が大和朝廷のいわゆる神武天皇に対して長髄彦と伝えられる

 

 

 

神 社  

 

(前略)

 鳥見邑の惣社(鎮守)として考えられるものは登彌(とみ)神社である。しかしこれはわが国家組織が固まって来た時代のことである。鳥見邑では鳥見氏と称する首長(或いはいわゆる長髄彦の後裔とでもいえる)に祀られたものがこの登彌神社であろう。

 

鳥見氏はあまり発展せす、次第に消滅してしまうが、その神社はのこり、式内社として官社の位地にあつた。さてこの登彌神社は、いま大字石木にある登彌神社とされる。このことは、地誌の白眉と称せられる江戸時代の「大和志」(一七三四編集)に既に説かれている。

 

これに対して、登彌神社は北倭村大字上村の長弓寺の境内にある天王社であるとする明治時代の地誌「大和志料」の所説がある。これが断定は至難である。

(後略)

 

 

 

 

富雄川散歩は、白洲正子に嫌われた霊山寺から。  (備忘用 走り書きメモ)

2020年4月25日。大和国 登美山鼻高霊山寺

 

まずは寺の縁起。公式HPから。

霊山寺の所在する富雄の里は、古事記には「登美」であり、日本書紀では「鳥見(とみ)」の地となっています。


敏達天皇の頃より、この地方は小野家の領有でした。右大臣小野富人(遣隋使・小野妹子の息子と伝わる)は壬申の乱に関与したため、弘文元年(672)官を辞し、登美山に閑居しました。天武12年(684)4月5日より21日間熊野本宮に参籠。この間に薬師如来を感得され、登美山に薬草湯屋を建て、薬師三尊仏を祀って諸人の病を治されました。そして富人は鼻高仙人と称され尊崇されたのです。

神亀5年(728)流星が宮中に落下し、大騒ぎになり孝謙皇女が征中の病(ノイローゼ)にかかられた時、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋薬師如来を祈念すれば治るとのお告げがあり、すぐに行基菩薩が代参。皇女の病が快癒しました。天平6年(734)聖武天皇行基菩薩に大堂の建立を勅命。
天平8年8月インドバラモン僧、菩提僊那が来日され、登美山の地相が霊鷲山(りょうじゅせん)にそっくりということから、寺の名称を霊山寺(りょうせんじ)と奏上され、落慶となりました。

平安時代弘法大師が来寺され、登美山に力の強い龍神様がおられると感得され、奥の院大辯才天女尊(辯天さん)として祀られました。それまで当寺は法相宗でしたが、弘法大師真言宗を伝えられ、以後は法相宗真言宗の2宗兼学の寺となりました。


鎌倉時代には北条氏の帰依厚く、弘安6年(1283)本堂の改築、堂塔寺仏の修復新調が行われ、僧坊21ケ寺という所説からも非常に栄えました。その後、豊臣秀吉公の社寺政策により寺領百石を与えられ、また徳川幕府にも受け継がれ、御朱印寺として国家安泰と五穀豊穣そして幕府の武運長久を祈願して参りました。

ところが明治維新廃仏毀釈により、伽藍の規模は半減、200体以上の仏像焼却の運命をたどりました。しかし本尊薬師如来のご加護と、弘法大師が勧請された大辯才天の霊験により復興し、今もなお国宝重文建物6棟、重文仏像宝物30余点を所蔵し、隆盛を保っています。


境内にある1200坪の薔薇庭園は先代住職の戦争体験から平和を願って、昭和32年に開園されました。200種2000株の色とりどりの薔薇が心の安らぎを与えてくれます。

 

富雄川沿いを散歩して、霊山寺の前を通るたびに、派手な、商売っ気の多い寺だなぁと思っていた。

大きな朱の鳥居があり、仙人亭というレストランがあり、薬師湯殿という入浴施設があり、薔薇庭園もある。ヘルスセンターに寺が引っ付いているような、そんな風にも見えなくはない。

折に触れ、富雄川沿いに点在する寺社を訪ねたりしていたのだが、ここはわざわざ訪ねなくともいいかな、といつも素通り。山伏も、ここはちょっと入る気がしないと……。

 

白洲正子が、富雄川の流れに沿って十一面観音めぐりをしながら、この寺には足を踏み入れなかった気持ちはよくわかる。

 

門前まで行って躊躇したのは、まるで遊園地みたいに見えたからである。近頃流行の大霊園からヘルスセンター、金ピカの近代建築に彫刻、バラ園などが、鎌倉時代の金堂のまわりにひしめいている。大衆的なのは結構だが、貴重な遺産を生かしていないのは、商売熱心であっても、商売上手とはいえまい。私は何か恥かしい気持がして、早々に門前を立ち去った。

 

しかし、いまはコロナ禍の真っただ中、小学校は休校、保育園も休園、わが家では行き場のない小学生と保育園児を預かって、さてどこにこやつらを連れていこうかと思案したときに、思いついたのが、白洲正子言うところの遊園地「霊山寺」だった。

 

ちょうど霊山寺では、コロナ退散の読経を毎日正午から本堂でしているという。それにも興味を惹かれた。

 

 

 

まったく期待していなかったのである。

派手な朱塗りの「大弁財天」の扁額のかかった鳥居をくぐり、左手にバラ園を見て、右手にはコロナ自粛の世の中にあってさすがに休業中のレストランと、入浴施設とを見ながら、本堂のほうへと坂をのぼってゆく。

途中、十二支ごとの守り神の像ががずらりと並ぶ。ぴかぴか。

ここまでは、あまり有難味もない。

   

 

 

それでも、入口から遠ざかるほどに、世俗の匂いは少しずつ消えてゆく。

前方に小さな滝が見える、そこから小さな流れが小川となって流れ下ってくる。

湯屋(ゆや)川」。なるほど、熊野川か。ううううむ、ここは熊野か!

(それもそうだ、ここは真言宗の寺なのだ。)

 

 

湯屋川の奥の滝の入口には、たぶん如意輪観音と、不動明王

 

 

 

さらに滝に近づくと、これがすごい。ムーミン谷のニョロニョロ状態で、無数の小さな不動明王がいる。手前の不動明王たちはすっかり緑に苔むし、奥の方に行くにつれ、姿かたちがはっきりとしてくる。

 

 

このうちの一つを手に取って裏返してみると、背に「識」という文字が彫ってある。

あ、なるほど、不動明王一体が一字なのだ、そしておそらく全部(全文)で、般若心経になる。

水の流れる野に立つ般若心経。

誰がいつここに不動明王/般若心経を祀ったのかは知らぬが、霊山寺は、もう、これだけで十分、私の中では、ニョロニョロ不動明王寺として刻まれた。

 

いや、こちらの寺には、廃仏毀釈でかなりやられたものの、秘仏十一面観音もあれば、

本堂にはご本尊の薬師如来もある。

奥の院には大龍神が弁財天として祀られている。

 

不動明王たちを見おろす小高い丘には、如意輪観音も。

 

 

行者堂には、神変大菩薩役行者)、不動明王青面金剛蔵王権現が祀られている。

 

もしかしたら、ここ、すごく面白いところかもしれない。 

門構えだけで興味を失っていたので、この寺についての予備知識は皆無だったのだ。

 

さあ、正午からのコロナ退散読経へと、本堂にゆく。

 

 

 

この本堂で、霊山寺住職が朗々と読経する声に合わせて、この世のすべての苦しみ、病を失くすことを願う薬師如来の十二の大願を釈迦が説いてゆく「薬師瑠璃光如来本願功徳経」と「般若心経」を共に読んでみたのだった。

そして、やはり、さすが真言宗。この寺に祀られている神仏を真言でその名を読みあげていく。

 

薬師如来は「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」。

これを聞いて、連れの山伏が、ウムと唸る。

牛頭天王もこの真言なのである」

牛頭天王は強力な疫病神であり、同時に強力な疫病退散の力を持つ守護神でもあり、その本地が薬師如来。当然に真言も同じになるわけだ。(ちなみに、スサノオの本地は牛頭天王になる)

 

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ

 

この真言、かつては町の拝み屋さん、たとえば子供の疳の虫退治の「虫きりさん」と呼ばれたようなおばさんが口にした呪文でもあった。しかし、子どもらはそれが何を意味するのかは知らない。

 

証言1.

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカってそんな呪文だったのですか!昔、近所に疳の虫をおさえる「虫きりさん」というおばちゃんがいて、疳の虫の強い私はよく行かされてたのですが、この呪文をとなえながら、手首に鉄の刃をあてて、切ると疳の虫が退散するという。。ありがとうございました。合点。

 

 

薬師如来牛頭天王スサノオ、大物主……人間どもが祀って祈る神々と言えば、その多くは疫病退治の神々だったのではないか、

山岳信仰と縁の深い十一面観音もまた、十種勝利の強力な神だ。

十種勝利

  • 離諸疾病(病気にかからない)
  • 一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
  • 任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
  • 一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
  • 國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
  • 不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
  • 一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
  • 不能溺(溺死しない)
  • 不能燒(焼死しない)
  • 不非命中夭(不慮の事故で死なない)

 

人間の長い歴史は、疫病との闘いの歴史でもあったのではないか、

そして、人間はそれに勝とうするのではなく、病を神のもたらすものとして、神を敬い奉り、謙虚に祈ることによって、生きてきたのではないか、

 

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ

 

霊山寺では本堂でのコロナ退散読経の後に、お守りと焼き菓子をいただいた。

お守りには、もちろん、薬師如来梵字

 

既にしてニョロニョロ不動明王に心を奪われていた私は、だんだんと、白洲正子が嫌った霊山寺の俗っぽさこそが、人間にとっての宗教の大事な部分のような気もしてきた。

 

ヘルスセンターと言われてしまった「薬師湯殿」は、千三百年前から人々の病を癒してきた、いわゆる幸せの薬湯なのである。

 

寺には不似合いのように思われるバラ園も、聞けば、シベリア抑留から生還した経験を持つ住職が、世界平和への願いを込めると同時に、人々の心の平和を願って花園を作ったのだと。ただし、北東の鬼門にあたるから、とげのあるバラを選んだのだと。

 

崇高でなくともいいではないか、

人々が集って、遊んで、身も心も癒し、祈る心で過ごせるならば、

祈りのテーマパーク、上等じゃないか、

そんな気分になってくる。

ただただ崇高で美しいだけが神や仏ではあるまいと、

信不信を問わず、浄不浄を嫌わず、念仏を唱えて、踊った一遍をふと想い起こしつつ。

 

 

 

 

とはいえ、この寺には、実に美しい、心奪われる仏像、神像があるのだ。

これは、本堂正面に賭けられていた「薬師三尊 懸仏」(南北朝時代)。

 

 

そして、これがご本尊。薬師三尊像(平安時代

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神将たちもいらっしゃる。「毘沙門天王立像」(平安時代

 

 

地蔵菩薩立像(鎌倉時代)は、すらりとして、妙になまめかしく、美しい。

 

 

秘仏「十一面観音」。これも平安時代の作だ。

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白洲正子によれば、霊山寺の十一面観音は、「平安初期の本格的な「檀像」である。十一面観音は、白檀を用いるのが正しいとされ、たとえば法隆寺の中国伝の九面観音でも、素材は白檀で、彩色はほどこされていない。」とのこと。

 

10月になれば、御開帳となり、拝観できる。

そのときには、ニョロニョロ不動明王群にもまた逢いに行こう。

 

 

 

 

 

秋篠寺に行ってきた。 (備忘用メモ)

2020年4月21日

富雄川沿いのわが家から、秋篠川のほうへと向けて、車を出す。

今日は秋篠寺だけ。

 

ここにも十一面観音がいたのだが、国立東京博物館に行ったきり帰ってこない。

この方です。厳しい顔をしていらっしゃる。かつての荒ぶる神の面影があるようでおある。

〈秋篠寺で買った写真集から〉

 

さて、秋篠寺の由緒を寺が発行している沿革略記から引き写すと――

奈良時代末期宝亀七年(七七六)光仁天皇の勅願により地を平城宮太極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる当時造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とほゞ時を同じくしてその完成を見、爾来、殊に承和初年常暁律師により大元帥御修法の伝来されて以降、大元帥(たいげん)明王顕現の霊地たる由緒を以って歴朝の尊願を重ね真言密教道場として隆盛を極めるも、

 

保延元年(一一三五)一山兵火に罹り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼失し、そのおもかげは現今もなお林中に点在する数多の礎石及び境内各処より出土する古瓦等に偲ぶ外なく、

 

更に鎌倉時代以降、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修補南大門の再興等室町桃山時代各時代に亘る復興造営の甲斐も空しく、明治初年廃仏毀釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い……(後略)

 

時代とともに、災禍とともに、宗派も変転する。

当初は法相宗、次いで真言宗、そして明治初年に浄土宗、昭和24年以降は単立宗教法人

 

というわけで訪ねた秋篠寺は、昔ながらの細い路地の先、水田や畑が点在する住宅街の中に建つ。

 

 

 

 

 

行けばわかる。確かにここは高台になっている。

山伏いわく、このあたりはちょうど斜面のはけで、水が湧くのだな。

秋篠寺の境内はみずみずしく苔むし、水が流れ、水が湧き、井戸がある。

ここは水の寺だ。

 

中には東門をくぐって入る。

入るとすぐ右手に地蔵、

左手にはこの寺のなによりの根拠である「聖なる水」、香水閣閼伽井がある。

 

 

 

 

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「清浄香水」  「味如甘露」

この水を6月1日に汲んで、大元帥明王に供えるのだという。

大元帥明王はこの閼伽井の水底に、みずからの忿怒の形影を映じて、常暁律師にその示現を知らしめたのだという。

 

この大元帥明王は、謂れを読めば、なんとまあ神仏習合の集大成のような、最強のオールマイティ神だ。

 

この大元帥明王は、大廬舎那仏の化、釈迦と諸仏の変、如来の肝心衆生の父母、不動愛染等の諸々の威徳身、観音無尽意虚空蔵等の諸々の菩薩身、聖天十二天等諸々の功徳心等を一切を摂して衆徳荘厳せり。(中略)今願力の故に以って大元帥明王となし、諸尊の中、最尊最上第一の威徳身を顕現す。

 

大元帥明王はこんな方。燃え立つ髪の毛、忿怒の形相、腕6本! 

秘仏なので、前記の通り、6月1日しか御開帳されない。

だが、今年はコロナのせいで御開帳できるかどうか……、とやはり受付の女性。

こんなときだからこそ、たとえ御開帳せずとも、必死の祈りをと思う。

私は仏教を信仰する者ではないが、風土の鳥獣虫魚草木石水に宿る神々の存在は信じる。というより、鳥獣虫魚…………すべての命、それ自体がカミなのだと思う。

すべての命を信じること、祈ること、

こうして形を取って現れ出るカミとは、人々の祈りが呼び出したものであり、時空を超えて祈りをつないでゆくためにここにある存在なのだとも思うのだ。

 

祈れ。

謙虚に祈れ。

 

そう、カミは、そして命は言っている。

 

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さて、ともかくも寺の中へと入ってゆく、神仏だけでなく、なんでもある、これは砲弾を前に飾った忠魂碑、その傍らには、これは、地蔵か。

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その先には、旧い祠が集められている。

疫病神牛頭天王、その子どもの八王子明神等々、いわゆる神仏習合明王たちの祠がここに結集。

なぜここにこのように集められているのか、受付の女性に尋ねたが、はっきりしたことはわからない、そもそもこの寺の歴史も定かではない部分が多いのだという。

 

牛頭天王社がここにあることは大いに腑に落ちる。秋篠寺の御本尊は薬師如来。荒ぶる疫病神であり、祀ることで疫病からこの世を守る牛頭天王本地仏だ。

 

このずらりと並ぶ古祠の前に立てば、神仏分離以前の人々の精神風景が見えるようでもある。

 

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この標識を背に、本堂のほうへと向かう。

 

 

これが本堂。かつての講堂。

本来の本堂(金堂)は、もうずいぶん昔に焼けてない。跡地は豊かな緑に苔むしている。

 

 

本堂の中は撮影禁止。これも秋篠寺で購った写真集から。

真ん中にご本尊の薬師如来。このお方、すごく真っすぐな生一本の男らしいお顔をしている。

脇に日光・月光菩薩。さらに十二神将不動明王ももちろんいる、そして向かって右端が左端に伎芸天。優美な腰のひねり。

 

 

愚直そうないいお顔。

 

 

あらゆる方位に立って世界を守る。

 

 

流れる水のような腰がポイント、伎芸天。

 

 

本堂を出て、大元帥堂へ。もちろん扉は閉じられている。

 

 

 

本当にこの寺にはなんでもある。大元帥明王堂のずっと右手、「欧州大乱 戦病難死 萬霊供養塔」。

 

 

萬霊供養塔の右手には、大峰山に三十三度お参りしたことを記念する石碑。

となると、役行者もいるわけで……

 

 

これは素朴な石の役行者さん。

 

 

 

そして、これは、かみなり石。

秋篠寺一帯は雷がよく落ちたのだという。

その騒がしい雷様のへそを常暁律師が取ってこの石の下に封じたのだという。

富雄の谷の辺りは、生駒おろしのせいで、風が吹いたり、雨が降ったり、くるくる天気が変わるが、平城京から見たら黄泉の国の押熊にも近い秋篠寺あたりもまた、風神雷神の棲み処だったのだろうか。

 

これは、今はなき東塔の礎石。なかなか立派な塔があったように見える。

 

 

南門から外に出る。すぐ目の前に八所御霊神社がある。

 

 

秋篠寺の鎮守神として創建されたという。

この日、氏子の方々だろうか、幾筋もの美しい水の流れのような美しい玉砂利の境内を丁寧に掃き清めている。

ここに祀られている八柱はいずれも非業の死を遂げた方たちばかり。

非業の死者を祀って神とする、

疫神を祀って神とする、

敗者を祀って神とする、

敗者の記憶、弱者の記憶、踏みにじられた者の記憶、

簡単になかったことにされてしまう者たちの命の記憶をとどめる装置としてのカミということも考える。

 

 

今日もコロナで町は閑散。

 

人影のまばらな町には、不信の風が吹き込んでいるようで、つながるべき命を探して歩いてゆく。

 

秋篠寺では伎芸天のお守りを買った。

芸能の奏でる音は、新しき世への道しるべ、と伎芸天は言っている、たぶんね。

 

 

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

明日は秋篠辺りを歩く。  (予告編)

コロナのせいで、外に出たくてたまらない。

出ようと思えばもちろん出られる。

お上から自粛などを要請されたら、なおさら外に出たくなる。

しかし、見るもの触れるもののすべてが信じられないという、近代の極みのようなこの「不信の病」は、信じることによって生きていくという、生きとし生けるすべての「命」の基本を掘り崩す。

つながること、結ばれることがこそがその本質である命に分断をもたらす「不信」の構造を突き抜けて、越えてゆくこと。

 

不信の世界で幅を利かすのは、力であり、金であり、蔑みであり、憎しみであり、悲しみであり……。

 

信不信を問わず、浄不浄を嫌わず、命は生きるものなのだ、救われるものなのだ、旅するものなのだ、祈るものなのだ、踊るものなのだ、(と、一遍上人のように呟いてみる)

 

ともかくも、明日は秋篠あたりをうろついてみよう。コロナの平日、人はおそらくほとんどいないだろう。

 

『十一面観音巡礼』の「秋篠のあたり」にこうある。

薬師寺の十一面観音についてお聞きしたいというと、自分(高田好胤)にはそういことはわからないからといって、副住職の松久保氏を紹介して下さった。松久保さんは法相宗の著名な学僧である。十一面観音についても、はっきしりした意見を持っておられ、印度に発生した当初から山と水の信仰と結びつき、中国・朝鮮を経て、7世紀ごろ日本に渡来した。薬師寺の十一面の伝来は不明だが、大和の西山には、矢田岳、龍王山などの地名もあり、秋篠川の水の信仰ともおそらく関連がある。大体そのようなお話であった。しばらくぶりで平野に出て、ほっとしていたのに、十一面さんはあくまでも山の仏であり、水の女神なのだ。

 

秋篠川もまた、十一面観音の川筋だという。

 

土地の人々は、秋篠川のことを、サイ川と呼んでおり、境の川、もしくは賽の河原を意味したに違いない。秋篠川から先は別の世界であり、黄泉の国なのだ。 

 

この文章は、現在の奈良市押熊あたりのことを言っているのだが、私がふだん買い物やらなにやらでうろついているあたりでもある。

昭和の末頃はまだここは山村で、開発の手もそれほど入っていなかったというが、今では大通りに郊外店がずらりと並ぶ一帯でもある。

 

秋篠方面に行くには、この今は隠された「黄泉の国」を通っていく。

今までも知らず知らず、秋篠川/サイの川をあっちからこっちへ、こっちからあっちへ、渡っていたのだ。