富雄川散歩は、白洲正子に嫌われた霊山寺から。  (備忘用 走り書きメモ)

2020年4月25日。大和国 登美山鼻高霊山寺

 

まずは寺の縁起。公式HPから。

霊山寺の所在する富雄の里は、古事記には「登美」であり、日本書紀では「鳥見(とみ)」の地となっています。


敏達天皇の頃より、この地方は小野家の領有でした。右大臣小野富人(遣隋使・小野妹子の息子と伝わる)は壬申の乱に関与したため、弘文元年(672)官を辞し、登美山に閑居しました。天武12年(684)4月5日より21日間熊野本宮に参籠。この間に薬師如来を感得され、登美山に薬草湯屋を建て、薬師三尊仏を祀って諸人の病を治されました。そして富人は鼻高仙人と称され尊崇されたのです。

神亀5年(728)流星が宮中に落下し、大騒ぎになり孝謙皇女が征中の病(ノイローゼ)にかかられた時、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋薬師如来を祈念すれば治るとのお告げがあり、すぐに行基菩薩が代参。皇女の病が快癒しました。天平6年(734)聖武天皇行基菩薩に大堂の建立を勅命。
天平8年8月インドバラモン僧、菩提僊那が来日され、登美山の地相が霊鷲山(りょうじゅせん)にそっくりということから、寺の名称を霊山寺(りょうせんじ)と奏上され、落慶となりました。

平安時代弘法大師が来寺され、登美山に力の強い龍神様がおられると感得され、奥の院大辯才天女尊(辯天さん)として祀られました。それまで当寺は法相宗でしたが、弘法大師真言宗を伝えられ、以後は法相宗真言宗の2宗兼学の寺となりました。


鎌倉時代には北条氏の帰依厚く、弘安6年(1283)本堂の改築、堂塔寺仏の修復新調が行われ、僧坊21ケ寺という所説からも非常に栄えました。その後、豊臣秀吉公の社寺政策により寺領百石を与えられ、また徳川幕府にも受け継がれ、御朱印寺として国家安泰と五穀豊穣そして幕府の武運長久を祈願して参りました。

ところが明治維新廃仏毀釈により、伽藍の規模は半減、200体以上の仏像焼却の運命をたどりました。しかし本尊薬師如来のご加護と、弘法大師が勧請された大辯才天の霊験により復興し、今もなお国宝重文建物6棟、重文仏像宝物30余点を所蔵し、隆盛を保っています。


境内にある1200坪の薔薇庭園は先代住職の戦争体験から平和を願って、昭和32年に開園されました。200種2000株の色とりどりの薔薇が心の安らぎを与えてくれます。

 

富雄川沿いを散歩して、霊山寺の前を通るたびに、派手な、商売っ気の多い寺だなぁと思っていた。

大きな朱の鳥居があり、仙人亭というレストランがあり、薬師湯殿という入浴施設があり、薔薇庭園もある。ヘルスセンターに寺が引っ付いているような、そんな風にも見えなくはない。

折に触れ、富雄川沿いに点在する寺社を訪ねたりしていたのだが、ここはわざわざ訪ねなくともいいかな、といつも素通り。山伏も、ここはちょっと入る気がしないと……。

 

白洲正子が、富雄川の流れに沿って十一面観音めぐりをしながら、この寺には足を踏み入れなかった気持ちはよくわかる。

 

門前まで行って躊躇したのは、まるで遊園地みたいに見えたからである。近頃流行の大霊園からヘルスセンター、金ピカの近代建築に彫刻、バラ園などが、鎌倉時代の金堂のまわりにひしめいている。大衆的なのは結構だが、貴重な遺産を生かしていないのは、商売熱心であっても、商売上手とはいえまい。私は何か恥かしい気持がして、早々に門前を立ち去った。

 

しかし、いまはコロナ禍の真っただ中、小学校は休校、保育園も休園、わが家では行き場のない小学生と保育園児を預かって、さてどこにこやつらを連れていこうかと思案したときに、思いついたのが、白洲正子言うところの遊園地「霊山寺」だった。

 

ちょうど霊山寺では、コロナ退散の読経を毎日正午から本堂でしているという。それにも興味を惹かれた。

 

 

 

まったく期待していなかったのである。

派手な朱塗りの「大弁財天」の扁額のかかった鳥居をくぐり、左手にバラ園を見て、右手にはコロナ自粛の世の中にあってさすがに休業中のレストランと、入浴施設とを見ながら、本堂のほうへと坂をのぼってゆく。

途中、十二支ごとの守り神の像ががずらりと並ぶ。ぴかぴか。

ここまでは、あまり有難味もない。

   

 

 

それでも、入口から遠ざかるほどに、世俗の匂いは少しずつ消えてゆく。

前方に小さな滝が見える、そこから小さな流れが小川となって流れ下ってくる。

湯屋(ゆや)川」。なるほど、熊野川か。ううううむ、ここは熊野か!

(それもそうだ、ここは真言宗の寺なのだ。)

 

 

湯屋川の奥の滝の入口には、たぶん如意輪観音と、不動明王

 

 

 

さらに滝に近づくと、これがすごい。ムーミン谷のニョロニョロ状態で、無数の小さな不動明王がいる。手前の不動明王たちはすっかり緑に苔むし、奥の方に行くにつれ、姿かたちがはっきりとしてくる。

 

 

このうちの一つを手に取って裏返してみると、背に「識」という文字が彫ってある。

あ、なるほど、不動明王一体が一字なのだ、そしておそらく全部(全文)で、般若心経になる。

水の流れる野に立つ般若心経。

誰がいつここに不動明王/般若心経を祀ったのかは知らぬが、霊山寺は、もう、これだけで十分、私の中では、ニョロニョロ不動明王寺として刻まれた。

 

いや、こちらの寺には、廃仏毀釈でかなりやられたものの、秘仏十一面観音もあれば、

本堂にはご本尊の薬師如来もある。

奥の院には大龍神が弁財天として祀られている。

 

不動明王たちを見おろす小高い丘には、如意輪観音も。

 

 

行者堂には、神変大菩薩役行者)、不動明王青面金剛蔵王権現が祀られている。

 

もしかしたら、ここ、すごく面白いところかもしれない。 

門構えだけで興味を失っていたので、この寺についての予備知識は皆無だったのだ。

 

さあ、正午からのコロナ退散読経へと、本堂にゆく。

 

 

 

この本堂で、霊山寺住職が朗々と読経する声に合わせて、この世のすべての苦しみ、病を失くすことを願う薬師如来の十二の大願を釈迦が説いてゆく「薬師瑠璃光如来本願功徳経」と「般若心経」を共に読んでみたのだった。

そして、やはり、さすが真言宗。この寺に祀られている神仏を真言でその名を読みあげていく。

 

薬師如来は「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」。

これを聞いて、連れの山伏が、ウムと唸る。

牛頭天王もこの真言なのである」

牛頭天王は強力な疫病神であり、同時に強力な疫病退散の力を持つ守護神でもあり、その本地が薬師如来。当然に真言も同じになるわけだ。(ちなみに、スサノオの本地は牛頭天王になる)

 

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ

 

この真言、かつては町の拝み屋さん、たとえば子供の疳の虫退治の「虫きりさん」と呼ばれたようなおばさんが口にした呪文でもあった。しかし、子どもらはそれが何を意味するのかは知らない。

 

証言1.

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカってそんな呪文だったのですか!昔、近所に疳の虫をおさえる「虫きりさん」というおばちゃんがいて、疳の虫の強い私はよく行かされてたのですが、この呪文をとなえながら、手首に鉄の刃をあてて、切ると疳の虫が退散するという。。ありがとうございました。合点。

 

 

薬師如来牛頭天王スサノオ、大物主……人間どもが祀って祈る神々と言えば、その多くは疫病退治の神々だったのではないか、

山岳信仰と縁の深い十一面観音もまた、十種勝利の強力な神だ。

十種勝利

  • 離諸疾病(病気にかからない)
  • 一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
  • 任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
  • 一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
  • 國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
  • 不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
  • 一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
  • 不能溺(溺死しない)
  • 不能燒(焼死しない)
  • 不非命中夭(不慮の事故で死なない)

 

人間の長い歴史は、疫病との闘いの歴史でもあったのではないか、

そして、人間はそれに勝とうするのではなく、病を神のもたらすものとして、神を敬い奉り、謙虚に祈ることによって、生きてきたのではないか、

 

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ

 

霊山寺では本堂でのコロナ退散読経の後に、お守りと焼き菓子をいただいた。

お守りには、もちろん、薬師如来梵字

 

既にしてニョロニョロ不動明王に心を奪われていた私は、だんだんと、白洲正子が嫌った霊山寺の俗っぽさこそが、人間にとっての宗教の大事な部分のような気もしてきた。

 

ヘルスセンターと言われてしまった「薬師湯殿」は、千三百年前から人々の病を癒してきた、いわゆる幸せの薬湯なのである。

 

寺には不似合いのように思われるバラ園も、聞けば、シベリア抑留から生還した経験を持つ住職が、世界平和への願いを込めると同時に、人々の心の平和を願って花園を作ったのだと。ただし、北東の鬼門にあたるから、とげのあるバラを選んだのだと。

 

崇高でなくともいいではないか、

人々が集って、遊んで、身も心も癒し、祈る心で過ごせるならば、

祈りのテーマパーク、上等じゃないか、

そんな気分になってくる。

ただただ崇高で美しいだけが神や仏ではあるまいと、

信不信を問わず、浄不浄を嫌わず、念仏を唱えて、踊った一遍をふと想い起こしつつ。

 

 

 

 

とはいえ、この寺には、実に美しい、心奪われる仏像、神像があるのだ。

これは、本堂正面に賭けられていた「薬師三尊 懸仏」(南北朝時代)。

 

 

そして、これがご本尊。薬師三尊像(平安時代

f:id:omma:20200428003952p:plain

 

 

神将たちもいらっしゃる。「毘沙門天王立像」(平安時代

 

 

地蔵菩薩立像(鎌倉時代)は、すらりとして、妙になまめかしく、美しい。

 

 

秘仏「十一面観音」。これも平安時代の作だ。

f:id:omma:20200428003919p:plain

 

白洲正子によれば、霊山寺の十一面観音は、「平安初期の本格的な「檀像」である。十一面観音は、白檀を用いるのが正しいとされ、たとえば法隆寺の中国伝の九面観音でも、素材は白檀で、彩色はほどこされていない。」とのこと。

 

10月になれば、御開帳となり、拝観できる。

そのときには、ニョロニョロ不動明王群にもまた逢いに行こう。