森崎和江 エッセイ 気になる言葉 メモ

◆「ナヨロの海へ」

私は日本人のまねをしている日本人ではなかろうか

 

◆「悲しさのままに」

かつての日本の植民地で生まれ育ったものですから、自分を生き直したくて、くりかえし日本とは何だろう。わたしとは、いのちとは、と自問しながら彷徨するのは、やむをえぬ道行きでした。

 

◆「善知鳥と産女土偶

いのちの母国。

長い旅の末にたどりついたところ。

三内丸山遺跡。女人土偶。板状女人土偶

 

ああ、出会えたよ。この列島の先行文明に。あの建国神話とは異質の、いのちの母国に。 国のために産み、国のために死ぬことを、くりかえしくりかえし他民族の少女と共に求められ、犯され、売られ、殺された近代建国期。その歳月の間信ずることを求められた古代建国神話。だからこそ帰国して探し求めたのは消し合い殺し合うことのない精神の山河でした。その愛とたたかいの足跡。生命の平等観とその実現への祈りだった。そんなもの、夢だよと笑われながら。

 でもね、ほら、今ここに。ね、産女土偶が出土しているよ。ね、はるかはるかむかしの人の、精神のすがたがみえる。

 

 

森崎和江 『慶州は母の呼び声』 メモ

これは、森崎さんにとっての『あやとりの記』なのであり、『苦海浄土』なのだと思った。


失われた「はは(オモニ)のくに」の記録。痛切。哀切。

 

◆唄の記憶、ひとつ。

先に行くのはどろぼうだよ
その次はヤンバンサラム
あとから行くのはシャンヌム

いつごろ生まれた唄か。シャンヌムとは一般の農民のこと。ヤンバンサラムの家の小作をする人もすくなくない。先に行くどろぼうのイメージは、イルボンサラムだったろうと、帰国したのちに思った。朝鮮米ひとつをみても、それは内地へ移出され、買い占められて相場米となっていて、シャンヌムは砕け米を食べたのだ。

 

◆植民地の工場の記憶


大邱には紡績会社や製紙会社がいくつもあった。そのなかの一つに片倉製糸もあった。ある日、小学二年生の森崎和江は学校帰りに工場見学を思い立つ。

工場へ一足入って、わたしは後悔した。
女の子とと目が合ったのだ。くるくると廻る機械の前に腰掛けて手を動かしながら、ちらとわたしを見たその子は、わたしより幼く見えた。その目はかなしげだった。戸口は開いていた。開いている戸口の、すぐそばにいた。何か考えていた目を、こちらへ向けたのだ。汚れた白いチョゴリを着ていた。
(中略)
わたしは絹の糸は繭を機械にいれるとひとりでに糸となって出てくるものだと思っていたふしがある。幾台もの回転する機械の前に、一人ずつ女の人が腰掛けている。誰もこちらを見ない。見る暇などない。先程の子が一番小さい子で、あとは十二、三歳ほどの子や、娘やオモニが、茹でたくさい匂い出している繭の浮く湯壺の中から絶え間なく繭をつまんでは、くるくる廻る機械に細い糸をつまみ出しては引っかける。
(中略)
整理のつかぬ感情が粘っこく澱んだ。工場で働く女たちはみな朝鮮人だった。

 

◆植民地の祭りの記憶。

内地では、それぞれの地方に田の神祭りや虫送りや海供養などと、作物や狩猟に関連した共同の祭りがあるのだが、植民地の暮らしにはそれがない。田畠はいくらでもあるのに、田で働く人びとは別だったから。(中略)わたしが米と麦の区別がつかなかったことの根は深く、それは何よりも植民地の日本人を語るかに思う。(中略)朝鮮でわたしが食べた米、その米を作るために朝鮮人の農民が四季折々に農業の神に祈りを捧げ、こまやかに神まつりの風習を繰り返していたのだが、それをわたしは天の川の伝説をなつかしむように眺めるばかりで、労働の実情などまるで知らなかった。
(中略)
朝鮮人を働かせて安楽に暮らしていたわたしたちの祭りといえば、春は軍旗祭、秋は大邱神社祭であった。軍旗祭は天皇陛下から賜わった軍旗を祝して行う聯隊の祭りで、(中略) 
秋祭りは本来ならば収穫祭ということになるだろう。わたしたちもそのように思っていた。(中略) わたしら日本人にとっては、他人に働かせた田畠の収穫の祭りであったのだが、みこしを共に見物している朝鮮人農民の目には軍旗祭とかわりなく見えたことだろう。

 

この根っこのない祭りの風景は、見覚えがある。
日本社会の、都市の、根無し草の住民でしかなかった在日の家に育った私の祭りに対する感覚。植民地の近代性は、そのまま日本の都市の近代性なのだと思えば、腑に落ちる。上も下も根無しの、あとにしてきた風土もばらばらの民で構成された都市。うちはその底辺、もしくは周縁の存在だったのだけどね。

 

当時の日本は昭和の不況期で、失業者三十万といわれていた時である。植民地のこの平凡な生活は内地では都市生活者のもので、一般には四季の行楽や温泉旅行はもとより、お手伝いを置くなど考えられないことだった。水道の普及さえ一部の都市にとどまっていた。

 

◆慶州で朝鮮人の少女と一緒に歌い、語り合った記憶

 

少女が朝鮮語の唄を教えてくれた。そして、秘密も。

 

波が鳴る鳴る

連絡船は出て行く

「お元気でね」

「達者でいろよ」

涙で濡れるハンカチ

心からおまえを

ほんとうにおまえを

愛しているので

涙かくして日本へ行くよ

 

「あのね……」少女が言った。

「何?」

「あのね、日本が戦争をするから雨が降らないのよ。それで日本に働きに行くの。雨が降らないからお米がとれないでしょう」

「戦争をするから雨が降らないって? そんなことないよ」

「おじいさんが言ったよ。大砲をどんどん撃つから空が乾くって」

「日本人もそんなこと言ってるけど……。でもそんなことないと思うよ」

「あるのよ。おじいさんが言ったもの」

「おじいさんが?」

ひそひそと話した。

「おじいさんがね、もうすぐ日本は敗けるって」

「そんなことないよ」

「ほんとうに敗けるって。あのね、王様のお墓の前でお祈りしているよ、夜に」

「あなたのおじいさん?」

「よその人も一緒よ、敗けるように」

窓の外で物音がするようで、わたしは唇に指を当ててうかがったあと、

「ほかの日本人に言ってはだめよ」

と言った。

「言わない」

 

 

『慶州は母の呼び声』を読みながら、

森崎和江の恐るべき詩「ほねのおかあさん」を想い起こす。

森崎和江の、近代的「個」と「他者」と「いのち」の唄を。

 

個が他者を孕む、それがいのちのはじまり、

それを表す言葉を日本語は、近代語は持たない、

という森崎和江の気づきの背景には、

おそらく、おのれのいのちが、そのはじまりにおいて、

朝鮮という他者の懐で孕まれ慈しまれ育まれた記憶があるのだろう。

 その他者を踏みにじること、それが日本の近代であり、植民地主義であったこと。

日本近代の落とし子である「植民2世」であり、朝鮮の人びとにとっては腹の中の鬼子であったはずのおのれの存在を思い知ったときの森崎和江の衝撃を思う。

 

森崎和江にとって、日本の敗戦とともに、世界は一度滅んだ。

そして戦後の荒涼たるはじまりを迎える。

日本社会は、相も変わらず、他者を他者のままに共に生きる思考も言葉も持たなかったから。

 

◆あとがきから

朝鮮語では母親のことをオモニという。わたしという子どもの心にうつっていた朝鮮は、オモ二の世界だったろう。個人の家庭というものは広い世界の中に咲く花みたいなもので、世界は空や木や風のほかに、沢山の朝鮮人が生きて日本人とまじわっているところなのだと、そんなぐあいに感じていたわたしは、常々、見知らぬオモニたちに守られている思いがあった。つまり、それほどに、朝鮮の母たちの情感はごく自然に大地に息づいていた。わたしは行きずりのオモニから頭をなでられ、小銭をにぎらせようとされ、ことばもわからぬままかぶりを振って、まだ若かった母のきものの袖にかくれたものである。(中略)異質さの発見と承認も、わたしはオモニによって養われたのである。 

 

日本の近代、植民地主義が、徹底して否定し、踏みにじってきた世界、森崎和江にとっての失われた原郷が、ここに書かれている。

 

今は地球上から消え果ましたが、なお、子々孫々にわたって否定すべき植民地主義と、そこでのわたしの日々を、この書物にまとめました。書くまでにかなりの月日を必要としました。書こうときめたのは、ただただ鬼の子ともいうべき日本人の子らを、人の子ゆえに否定せず守ってくれたオモニへの、ことばにならぬ想いによります。(中略) 書いたあとのわたしの心を、また以前と同じ、言いようのない悲しみがおおっていますが、これはその時代の申し子の罰として避けられぬものと、あらためて知りました。非力ですので十分に伝えかねていると思いますが、無神経にくらしていたわたしたちの家族の日々を通して、その向こうに、ゆうぜんと生きつづけていたものの大きさを感じとっていただけるなら、と、願っています。

 

あらためて、

森崎和江の言葉を読むこと、聞くことは、私にとってはとても重い、悲しい、そしてなによりもその厳しさに打たれる。

森崎さんに呼ばれつづけていたというのに、その深い思いに応えきれなかったかつてのおのれの幼さと非力をつくづくと思う。

いのちのはじまりの思想を継承してゆくこと、いのちのはじまりを語る言葉、他者とともにはじまるいのちを語る言葉を紡ぎ出すこと、その言葉で世界を語りなおすこと。

 

人間とその世界に突きつけられた大きな問いとして、森崎和江は在る。

「生む・生まれる話」(『ふるさと幻想』所収) メモ

これは松本健一への公開書簡。

こんな手紙を送られた松本健一は鳥肌が立つほど震えただろうなぁ、と思う。

 

いきなりこんな言葉が書きつけられる。

私は、もの書きになってしまいましたが、書きことばによる表現ぬきに生きることができなかったからで、もの書きになりたかったからではありません。書かなくとも生きられそうな気がしたら、そのとき私は書くことをよします。

 

そして、子を孕み、産んだときに森崎さんを襲った自身と言葉の亀裂、そこからはじまった思想的苦闘について、森崎さんは語り出す。

 

妊娠出産をとおして思想的辺境を生きました。何よりもまず、一人称の不完全さと独善に苦しみました。(中略) ことばという文明の機能に重大な何かが欠け落ちている。それをどうにかしないと、私は生きられない、と、そう思いました。

 

近代的「個」として生きてきた「私」が、子という「他者」を孕む。

身の内に他者を孕んだ自分を、「私」という一人称で表すことができるのか?

それは不意に、観念としてではなく、体のうちから、言葉の「欠如」として、その恐るべき実感として、森崎さんを襲う。

 

いのちは、自他の境が揺らぐところからはじまる、という事実。

 

いのちのはじまりを、身の内に他者を孕んだ存在の一人称を、表現する言葉も思想もないという事実。

 

そこから、森崎さんの思想的苦闘が始まったわけであるが、

そうして繰り出されてゆく森崎さんの言葉は、なかなかに強烈。

女の立場からものをいうのではなく、未来へ向かっての無限の可能性とでもいいたくなるほどの、精子卵子のこえでお手紙をさしあげたいほどです。いえ、それさえ、工場生産の原理に包括しえるならば、あてもなく流れやまぬエロスのこえで語りたくなります。そこからことばを生み、社会を生み、たたかいを編みたいと、くりかえしくりかえし思います。

 

次々攻めてくる。

 

右翼は「死」について考えることで、その思想をみがきました。イザナギイザナミのころから、それは正統的思考だと私は思っています。「死」を思想の原点とすることで、心とからだと村と社会と世界をつなぎ、体系化するのは、これは私たちのくにのなりたちにつながっていると思います。ですから、はらみ女には一人称が欠けているのは当然で、うつくしい文化です。

(中略)

「生むこと・生まれること」を思想的原点とするのは、存在の自己矛盾みたいな、奇妙な、まとまりきれぬもどかしさを起こさせます。神話でさえ、それは辺境での現象としてあつかわれているのです。子を産み終えた神々は、海の彼方や、よそのくにへと帰りました。

 しかししかしといわざるをえません。死がふくむ闇よりも誕生以前の闇のほうが人にとっては暗い。生を断つエネルギーよりも闇から人と成る力のほうが革命的です。人類はまだその原初の部分を思想の対象とすることはできていません。死は思想となるが、その対極は無である痛恨を現実のものにしないと、洋の東西を問わず、体制のいずれを問わず、人間なんて物質を生産するために生きているだけのものとなってしまう。たとえば水俣病について私がむきあっている一点は、ただもう、その細い糸ばかりです。人は、「生む・生まれること」を思想としえるのかしら、ということ。「生」というものではありません。そのはじまりです。はじめにことばなし、という実態を、どうするのか、ということ。

 

「人は、「生む・生まれること」を思想としえるのかしら、ということ。「生」というものではありません。そのはじまりです。はじめにことばなし、という実態を、どうするのか、ということ。」

 

いきなりこんな問いを投げつけられた松本健一は、大いにたじろいだに違いない、と私は思う。

 

そして、みずからの生とともにあることばを原郷として、生きるべき世界を生みだそうとしてきた森崎さんの苦しくも厳しい人生行路に、心を震わせながら思いを馳せる。

 

手紙の結びの言葉もすごい。

 

どうか、あなたも弱々しい部分をお大切になさってください。それが大切なことですと、べそかきながらお返事したため終ります。女という奴は、有史以来まだ勝者の味をしらないのだと思います。ですから、ほんとうをいうと、日清も日露も、六十年安保も七十年安保も、まためまぐるしくも青くさい挫折感なんぞも、くそくらえという思いは根深いのです。そんちびちびしたことでよろこんだり悲しんだりできないほどの辺境が、心身にしずんでいます。

 そして思います。もし、男が、「死」の体系をはなれて人間の歴史をのぞいてくれたなら、あるいは私とどこか似たような辺境が体内にしみでてくれはしないか、と。

 

国家の歴史なんて、「生」の思想をもたないこと、「生のはじまり」の思想を紡ぎ出す苦闘にくらべたらちびちびしたこと。(本当にそうだわ、森崎さん)

男が、そんな辺境の思想を孕むことができるかな、できるといいですね。

(と、森崎さんに深く共感しつつ、私も今ようやく「生のはじまり」の思想に思いをめぐらしはじめたばかり。これは大変なこと、本当に大変なこと)。

 

 

 

 

 

森崎和江「ノン・フィクションとしての民話」(『詩的言語が萌える頃』所収)  メモ

これはすごいエッセイだと思う。

 

冒頭に森崎和江の見つづけてきたこの世の風景が語られる。

 

まるで大きな肉体のように関連としていた社会が崩れ、ひとりひとりの人間たちが、名づけようもないほどとりとめのない個体となるさまを、私はこれまで二度、みて来た。

 

 (中略)

 

私が立ちあった生活社会の崩壊のひとつは、私のたましいを育てた社会であった。それは一般的には植民地と呼ばれるのだが、そして私もそう呼んでいるけれども、個体にとってそれは正確とはいいきなれない。

 もうひとつは、炭坑の消滅である。

 ひとりひとりのたましいにとって、と言いたくなるほど、生活の具体的な場で他と結び合っている社会の崩壊は、人に世界が消え去ったような衝撃を与える。これまで、そして今も、数かぎりない崩壊がくりかえされている。全くたずねようもなくなった文明の跡が地球上には残っていたりする。事実ひとつの世界は消え去るのである。私が立ちあったものはそのような根も絶えるほどのものではなかったし、個体を無視するならば、崩壊とさえ言えない。

 

(中略)

 

 私は一度はそれをわが身を切り裂くものとして体験し、他の一度は切り裂かれる社会と個人とをみつめるごとく、経験した。そして、それらの上に、三十余年の植民地主義が切り裂いた他民族の、個体のイメージが重なりつづけた。そしてまた、くにの中でくりかえし崩れてきた生活の場の音を聞きつづけた。

 

(中略)

 

もし、崩壊に立ちあうことがなかったとしたなら、私は持続する側しか目に入らなかったろう。けれども気がついてみると、生の営みとは消滅を内に包むものであり、それへの愛が民話を生むとも言えた。ともあれ、生活の場を失うとともに無に帰ってしまうものの存在がたまらなくて、それが跡を残すかどうか、つい自他の内外にたずねてしまう。

 

これが森崎和江を生涯終わらぬ旅へと突き動かす、痛みと哀しみと満ちた「寂寞たるおわり」の風景であり、同時に「荒涼たるはじまり」の風景でもある。

この風景を生涯背負いつづけて旅をする森崎和江の「芯」にあるものに思いを馳せるとき、私は心底震える。

 

植民地について、森崎和江はこう語る。

 

私のたましいを養ってくれた山河を一口で語ることはできない。それは崩壊させられようとする朝鮮の民衆の血液であったろう。気づかずに、私は、あの土地ですべてを受けつつ育った。(中略)私を抱いて青空を見せ、人びとの中へ連れ出した人のぬくもりは、肉親ばかりでない。むしろ、守りをしてくれた朝鮮人の娘や母の腕がどっしりしている。彼女たちがにほん語でたどたどしく語り聞かせてくれた話……

「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがおりました」。私はそのスカートの膝に手置き、彼女を見上げながらイメージの空にのぼった。ごく自然に、朝鮮服の老爺と老婆のゆったり歩く姿を心に描いた。(中略)父母が語るにほんの昔話にも同じ姿の老人が心に描き出された。つまり朝鮮人たちが。 

 

そして炭坑について。

 自然と調和しつつ作物を育てていた人びとが、反自然的な労働を自らに課し、膨大な唄を作った。けものたちと心をつなぎつつ、農村とも漁村とも町とも違う社会を生み出した。

(中略)

それは農耕社会を基本とする私たちのくににとって、ほんの短い、そしてちいさな異変であったかもしれない。けれども、私には、それは知識階層がすりぬけてきた観念の操作をした時代であったかに思われる。おおげさに言うならば、やはり、神話への挑戦であった。

(中略)

 私は地上で働く者のやまの神と、坑内のヤマの神とが人びとの心で混在しつつ語り口を異にするのを、坑夫たちの張りつめた心をうかがいみるように聞いていた。

 

そして、森崎和江は、さまざまな文章で繰り返し記したエピソードをここでも記す。

「あのな、神さんも坑外のことは守りしなさるが、坑内のことは知んなれんばい。おっかさんが拝んでもらいに行きなったと、わたしが無事かどうか。そうしたら、神さんがわたしを一生懸命さがしなさるが、見つからん。わたしの消息が神さんにつかめんとたい。(中略) 神も仏も地の上のことたい」

この話をした女坑夫は、赤不浄の禁忌を破って坑内労働をした経験をこう語ったともいう。

「赤不浄のとき坑内に入っちゃならんちゅうのは嘘。かすり傷ひとつせんだった。あれは血の上の話たい。人間は、意志ばい」

 

そして、『海路残照』に記された、「八百比丘尼」伝説のことをここでも森崎和江は語る。その話は、筑前遠賀郡庄の浦に伝わる「長寿貝伝承」を発端とする。

八百比丘尼は人魚の肉を食べたために不死となった女の伝説、「長寿貝」はほら貝の実を食べて不死となった海女の伝説。長寿貝を食べた女は死ねないまま流れ流れて津軽まで旅をして、そこで出会った旅人に遠いふるさとの話をするのである)。

 

植民地、炭坑を経て、宗像に居を移した森崎和江は、今度は宗像を出発点に、海伝いに、「八百比丘尼」の伝承を追い、土地土地でその物語を語り伝えてきた者たちに思いを馳せ、そこに歴史の中に埋もれてきた「いのち」の声、「女」たちの声を聞き取ってゆく。

 

それは森崎和江の「渚」の物語でもあるように思う。

(「渚」というとき、私は石牟礼道子の「渚」をまずは思い起こしている)

 

私は、海の底から海の幸を採って食べ、死ねなくなった女の、そのははのくにをたずねてやりたいと思った。さいわい海女が住む浦は炭坑町から遠くない。私は地層の中の話と、海の中の話とを聞き歩きつつ、私たちのくににも、人びとに気づかれぬまま各種の生活文化は咲き香り、死に絶えもしたのだなと思った。また、それでもかすかな片鱗を残すものらしい、と考えていた。

 そう思い歩くと、海女は海が養う肉体の確かさを伝承するのか、若い頃は海中眼鏡も使わなかった人の新進は、未知なる海と熟知する作業の接点をしっかりと持っていた。それと同じように太陽から遠い所での労働だが、炭坑の人びととは比較にならぬ心の歴史を持っていた。そのゆうぜんとしたひろがりは八百年を生きた女をふしぎとも思わせないような、海洋信仰に支えられていた。また、同じ仕事をする海女社会が海の気泡のようにいくつもいくつもあらわれては消え、消えてはあらわれ、その総体を海辺の人びとは自分たちの生活社会として心に抱いているのを知らされた。

 

渚の人びともまた、自然と神話を書きかえる。(いのちはおのずと与えられた神話に挑戦する。炭坑の人びとがそうであったように)。

 

 神功皇后の伝承は国家神道では史実として神に祀られたが、この海辺では、あの人は朝鮮に里帰りした、とも言う。また海女の浦の鐘崎では、海女発祥の伝説を、朝鮮の海女と結婚した漁師の話として伝えている。いずれにせよ、船を漕いで朝鮮海峡を往来していた上代の暮らしを、まだかすかに伝えているのだった。

 

たとえば古代の海人族である宗像族が古代国家に組み込まれ、神話もまた書き換えられていったときに、海辺の人びとの生活にも大きな変動があったかもしれないと森崎和江は想う。森崎和江が経験したような痛切な崩壊。そして、その崩壊の片鱗が、民話にも伝承にも散り残っているかもしれないと森崎和江は考える。

 

こうして、宗像から、海伝いの、「八百比丘尼」の伝説を追う津軽への旅が始まる。

 

それは民話を語り出した人びとの心の肌にふれたい思いにすぎないのだった。私はそのような形ででもなければ、自分がこのにほんのくにの、植民二世という政治的な被造物であったことを脱していくのはむずかしい思いで、旅をはじめた。

 それは民話の表街道ではなく、それを語り出した人びとの崩れ去った生活を探ね出す旅に似ていた。柳田国男が、庄ノ浦の話は作り話だと書いていたことも気になっていた。私は庄ノ浦がかつては海女が住む浦であったことを確かめつつ若狭へ向かった。その海女たちの浦々へ。手がかりはかすかであろうとも、崩壊に立ち合ったものの感じとる民話発生の渦は、海鳴りのように聞こえていた。

 

この世の社会や国家の移り変わりの中で崩壊し、消えていった者たちの跡を、民話や伝承を手掛かりに歩いてゆく。そうしてにほんを、にほんの中から超えてゆく、困難な旅。

 

こうして書かれた『海路残照』を、私は、初めて森崎さんに会った時に贈られた。

鐘崎海女の資料も一緒に。

そのときの私はそのことの意味にあまりに無知だったことが、今、深く悔やまれている。私自身も遠い旅を重ねてようやく、森崎さんの「海路」にたどりついた。

 

 

 

 

森崎和江  不穏な詩

妣(はは)

 

桃太郎

風車が赫いね

 

西のそらに

いちめんにまわっているよ

 

みえないのかい

そうかい

 

血の海さ

 

 

遊女

 

つばを吐いて

とび散ったほうへ歩く

 

風がないね

 

 

 

たとえば紫宸殿の

即位の秘儀

その観念をかぜにさらし水にさらし

 

つみくさの丘にすわる

 

たとえば紫宸殿の

神の子の舟

その観念をさかのぼり漕ぎわたり

 

うなばらの波にあそぶ

 

そらひびく わが産井の里

 

ふきすさぶははよ

おかあさん

 

しっ

かあさんは虫ですよ

 

 

詩「ほねのおかあさん」森崎和江  <産むことの思想>をうたう  メモ

森崎和江の身体感覚と言葉への感性。あまりにも鋭敏な感覚。

森崎和江の世界は言葉にならない欠如に満ちている。
その欠如を生き抜いていくには、言葉が必要、思想が必要、切実に必要。

それは、はじまりの言葉であり、はじまりの思想になるほかはない。

 

 ある日、友人と雑談していました。彼女は中学の教師でした。私は妊娠五ヵ月くらいでした。

 笑いながら話していた私は、ふいに、「私はね……」と、いいかけて、「わたし」という一人称がいえなくなったのです。

 いえ、ことばは一呼吸おいて発音しました。でも、それは、もう一瞬前の「わたし」ではありませんでした。何か空漠としてそのことばが自分にもどってきたのです。

 私は息をのみ、くらくらと目まいがしました。

 つい先ほどまで十分に機能していたはずの「わたし」ということば。男性との会話のときでも、互いに共通する内容を持っていた一人称。私の存在の自称。

 その「わたし」が、なぜか、ふいに、胎動を感じながら談笑していた私から、すべり落ちたのです。まるで、その内容では不十分だというかのように。

 私は体だけになりました。

 いえ、体もここもとても幸福で、子どもが日に日に育つよろこびで満ちていました。

 それでも、私の総体は、世間のことばからこぼれ落ちていました。よく知っていた「わたし」が消えていました。夜、おそろしく涙が流れるのです。

 

 

「ほねのおかあさん」

 

くちびるがうまれたよ

ももいろのあせ

かわいいおしゃべり

夏空をきらきら駆ける

むきだしの

熟れたおしゃべり

 

みぎの乳首

ひだりの乳首

<さようなら>

そんな なさけもかけられず

とりのこされて

 

<わかってやしないのよ

どうせなんにもしってやしないの

ひとりいいきな たかごえで

あのね 

あのこ きこえないのよ>

 

なみうちぎわで

たたかれているほねのおかあさん

 

かぜがふくよ

ひろい木の股をふきあげて

いくまんねんのかぜのにおい

木もたおれて

 

さらされよう

さらされよ

魚くずのなかに

うるんでひらく無音のおしゃべり

ないているほねのおかあさん

 

私は、自分がももいろの汗と、骨の部分とに、分離して感じとれる思いでした。 

 

こうした私のありのままを、分裂させずに一人称をはじめ、多くのことばにこめたいのに、今まで使っていた「わたし」にもその他のことばにも、社会通念がつまっていて、私ははみだしてしまうのです。

 

私自身が使っていた「わたし」には、くっきりとした個の自覚がつまっていました。自我といっていいかもしれません。肉体の内側から意識を刺激する他者の働きはふくまれていませんでした。

 

膨大なことが、いのちをめぐって、空白のままにのこされている (中略) しかし人間は、生まれて、産んで、そして死ぬのです。(中略)人のいのちは生まれて、産んで、そして死ぬという生命連鎖をふくんだ形でとらえてこそ、その全体は見えてきますのに、そうする習慣をもちません。

 

 「産むこと」は、存在しているもの、と会うことではなかったのです。

 びっくりしました。何もなかったのに、今、そこに在るのです。「わたし」をこわして、全く記憶のない存在として。それはすがすがしく生きているいのちでした。

 

 

まったく、びっくりするのは、私の方で、

初期の頃の森崎さんの、この言葉でもない、あの言葉でもない、と苦しみながら言葉を探していくような文章とは違い、実に平易に書かれているのに、実にすごいことがここには書かれている。

日本の、「個」が「全体」にのまれて見えなくなるような共同体に居場所を持たなかった植民地生れの少女は、そもそもそんな共同体を拒んで、「個」としての生き方を模索していくことになるのだが、その「個」が、「産み」の経験を通して、実は「個」ではありえないことに気づいてしまうわけで、

それは、

命を孕む、命を育む、命を生む、命をつなぐということのうちには、根源的な他者との出会いがあるということ、

命はどれも他者としてやってくるのだということ、

命は他者をを孕んで、あるいは他者に孕まれて、脈々とつながっていくのだということの、気づきでもあるわけです。

 

みずからの身体に宿る「命」という「他者」に対する認識を欠落させたままの「わたし」ではいられなくなった森崎さんが、命の出発点において絶対的に「他者」とともにある「個」の自我を問い直すとき、それはおのずともっとも痛烈な近代批判となり、そこから近代を乗り越える言葉と思想の模索がはじまる。

 

共同体から出発する石牟礼さんとは全く対極の位置にあるのだけど、つまり「命」との向き合い方が「個」からの出発という点で全く石牟礼さんとは異なるのだけど、「個」から「命」を考えて考えて考え抜いてたどりつく地点は、やはり同じなんだという驚きもある。

「命」にまっすぐに向き合うならば、どんな道筋をたどろうとも、近代の言葉・思想を超えてゆくほかないのだから。