国民国家を草の根から支えた「声」としての「浪花節」(兵藤裕己)。
「近世の封建国家の忠孝のモラル」から「近代の国民国家の一元的な忠孝のモラル」への「変換装置」となったのが、「大衆社会」に流通し浸透していく物語だったという認識。
※1 桃中軒雲衛門を中心に草の根ナショナリズムを支えるものとしての「浪花節」を論じる兵藤の論は非常に説得力のあるものなのだが、「いや、でも、そういうことばかりではないのだ」という現役浪曲師からの声。
※2 説経「さんせう太夫」の鴎外による近代文学「山椒大夫」への書き換えを想起せよ。
しかし、文字に固定された「国民国家」のモラルは、それが文字であるかぎり、いったん記されたものは揺らぐことも逸脱することもないが、「声」は文字のようには従順ではない。
●そこで重要なのが、本書の以下の視点。
「本書の後半においては、浪花節が「国民」としての「大衆」をつくりだしたという指摘は終点ではなく、戦時下の大衆文化を議論するうえでのむしろ出発点である。大衆文化がファシズムを能動的に支える側面を了解しつつも、「国民」や「国民国家」という概念を、予定調和的な帰結点としてイメージさせてしまうことには慎重さを保持したうえで、「国民」をつくりきれなかった破綻や逸脱に目を凝らしていくことになる。」(『浪花節 流動する語り芸』P14)
声の<逸脱>、声がもたらす<破綻>、これが重要。
★ まず、なぜ「浪花節」は草の根ナショナリズムの「声」たりえたか?
1.フシが重要であったということ。
聞き手による再現可能な「歌」として聞かれたということ。
2.地方と都市を結ぶ芸能であったということ。
(村から都市への移動の時代でもあった「近代」を想起せよ。近代において都市は、地方出身者の集合体となっていったということ)
「浪花節は明治後半期において、都市へ流入してくる人々に講談や落語以上に受けとめられていく、明治三〇年代には専門席が増殖していった。浪花節は、都市で生まれ育った者のみならず、それ以外の者にもひろく開かれていった」
「出身地の違いが、つまり文化的・言語的な地域差が、浪花節を楽しんだり、演じるう上での障害になりにくかった」
「平易な表現によって、また韻律(フシ)にのせられて展開する浪花節の物語をたのしむ上では、江戸文化や上方文化の素養は基本的には必要ではなかった」
※清元・常磐津・端唄・長唄といった「江戸固着の演芸」や、都市文化である「落語」を楽しむ層とは異なる層としての近代の大衆の出現としてこれを考える。
3.演者の個性を最大限に認める。/ フシの定型は個人に集約。
「定型」(家元制度)のような縛りはなく、個々の演者が独自の「フシ」を持つ自由さと、それゆえの裾野の広がり。
4.レコード、ラジオをとおして家庭に入り込んでいく。
浪曲は「武士道鼓吹」という大義名分をスローガンに、それに見合った演出によって<劇場化>され、近代的メッセージの器として<媒体化>され、レコードとして<複製化>されてゆく。
(※ただし、劇場だけでなく、日本中の小屋で演じられていたのだということも、浪曲を論じるうえで大事なこと)
4.浪曲は素人が真似ることのできる芸能。真似るための条件が整っている芸能。
レコードをキク・ヨム・マネル (戦後の浪曲教室の隆盛。素人ながら玄人はだしの天狗連。)
★「愛国浪曲」は、実際には、どのように聴かれなかったのか?
まずは「愛国浪曲」のこんな一節。
「今の日本は国を挙げ、大君のために益良男(ますらお)が、命捧げて支那の空、銃後の民を心して、新体制の旗の下、ともども進む非常時に、いくら正しい利益でも、私ごとや色酒に、湯水とつかふは何事です。しがない芸者のあたしぢゃとて、ラジオニュースや新聞を、日毎聴くたび読むたびに、何時も感謝で泣けてくる」
(『浪花節 流動する語り芸』より)
こんなセリフは演じるほうも、聞かされるほうも、かなわない。あからさまの国家からのメッセージ。
客ウケしなければ、いかに国家推奨の浪曲であっても、演じつづけるのは難しい。
おしなべて、愛国浪曲の寿命は短かったという。
つまらぬ愛国浪曲は客に「浪曲」とはみなされず、ある愛国浪曲発表会の場で、客席から、「浪花節(浪曲)をやってくれや」という声が飛んだという事例が『浪花節 流動する語り芸』に紹介されている。
さらには、「語り芸」においては、聴き手の側に、おしつけがましい国家からのメッセージをよけて物語を聞く自由がある、耳に入る語りの声を自分の想うままに解釈して受け取る自由がある、自分の好きな部分だけを耳をダンボにして聴く自由もある。
あるいは、言葉は戦意高揚の勇ましいものであれど、演じる側がそれに悲哀に満ちた節をつけるならば、その悲哀のほうに聴き手の耳は反応する。
声というものは、いかに枠をはめたとて、逸脱するのである、ということを『浪花節 流動する語り芸』の叙述は示唆する。
語り手にとっても、聴き手にとっても、声は逸脱するものなのである。
それこそが声の危うさであり、声の力であり、声の魅力なのである。