居心地の悪い教室。

昨日、恵泉女学園大学での「文学方法論」の集中講義終了。「文学」や「方法」という言葉から学生たちが連想するものとはまったくかけ離れたことを語り合う授業になった。
一言で言えば、自分のなかでもやもやしている自分を取り巻く世界に対する違和感、問い、不可解に思っていることを言語化するためのレッスン。「私には世界はこう見える」と語りだすための助走。

具体的には。もやもやしているけれど、日々の暮らしのなかで流してしまったり、直視したくないから棚上げしてそのうち忘れてしまうことになるいろんなことを、一度しっかりつかまえてみよう、という試みになるのだが、これが言うは簡単、実際やってみるとなかなかに難しい。

四日間、毎日、授業後に学生に感想を提出させる。
ある学生が書いてきた、「頭の中がもやもや、考え出したら今度はぐるぐる」。
また別の学生はこんなことを書いてきた。「なんて居心地の悪い教室だろう」。

違和感を突きつめる、問いつづける、不可解を不可解のままでほうっておかない。実のところ、そういうことをしないことで、人間の日常は平穏にまわっているものだから、ことさらに違和感のほうへと向かっていくと苦しい、疲れる、わかりやすい答なんかないから疲れる虚しい。学生の反応はまことにまっとう。しかし、そういうところに向かっていってこそ、「私には世界はこう見える」と語りだす声と言葉が自分の中に生まれ出てくる。世界を書き換える言葉も生まれ出てくる。

授業の中では、「故郷」「記憶」「予感」「希望」「歌」「人間」「戦争」「歴史」といった誰もが知っているような言葉の、新しい意味づけを考えてみたりもした。そうすることで、「故郷」や「記憶」が過去から切り離されたり、「予感」が、すべて終わったあとにやってくる「取り返しのつかない感」に書き換えられたり……。

学生だけじゃない。届く言葉を心もとない思いで必死で探して語り続けた私にとっても、楽しく苦しい四日間でありました。ふーーー。