語りとは単声ではない。   小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』メモ 2

小野和子が深く共感する中上健次の「語り」をめぐる言葉

語りは何によって成り立つのだろうと思う。語り手と聴き手の間には、親和力の漲った場所ができるはずである。語り手<私>は、その親和の場所の中で、いかようにも変る事が出来る。(中略)語りとは個人ではなく、背後に一種共同体のような、いや、人と人が集まった複声のようなものが、語る<私>を差し出しているのである。語りとは単声ではない。 

 

これは水上勉の文学を評して語られた言葉であるが、石牟礼道子の文学世界にもそのまま通ずる言葉。近代になって、驚くべき速さで忘れ去られていった「語り」の本質を呼び戻すかのような言葉。

 

中上健次の声への応答としての小野和子の声

「語り」とは同時に「騙り」である。「騙り」が持っている光と影の世界が、実は民話の世界の真実なのでないかと思う。その真実にたどり着くことは至難であり、内包する「ふしぎ」は果てしなく広がるが、そこには必ず血のしたたる現実に根を持つ「人と人が集まった複声」が潜んでいることを知ることになる。

 

※「語り」を想えば、パトリック・シャモワゾー『素晴らしきソリボ』が想い起こされる。