うるわしき日々

名古屋に暮らす弟夫婦が久しぶりに上京。台風余波の雨の中、車で我が家まで来てくれた二人と、環七沿いの「木曽路」ですき焼き。美味。

文芸創作を受講した学生たちの課題が続々届く。ひとりひとりにコメントを送る。20歳でしか書けないような文章に出会うと、思わず感動する。じっとこらえても、ぽろりこぼれでてしまうような、不安や孤独や痛みを潜ませた文章に出会うと、私もきずついた獣のような気持になって、部屋の隅っこで息を潜めてじっとうずくまる。

小島信夫『うるわしき日々」読了。例の如く、つかみどころがない、けれど、つかまれる。

「何かを思い起こす場合、たとえば今、今朝のことを振り返る場合には、今朝見たもののイメージを描くことができる。しかし今夜になって今朝のことを振り返る場合、実際に思い出しているのは、最初のイメージではなく、記憶の中の最初のイメージなのだ……<だから本当は>と父はいうのです。<私は自分の幼年期、青年期について、まったく何の記憶もない、何のイメージも持たないのだ>」

これは、小島信夫が『うるわしき日々』の結末に近い部分に置いた、ボルヘスの文章からの引用。

『うるわしき日々』は、思い出そうとすればするほど遠ざかり、曖昧になり、ずれてねじれていくようでもある記憶をめぐる物語のようにも思う。記憶をつかまえきれない、現実をつかまえきれない、老作家の他人事のような語り口が、実のところは、もっとも人間の現実に近いもののようにも思われる。

『うるわしき日々』というタイトルは、小島信夫が若き日に心酔したというサローヤンの『人間喜劇』を思わせる。しかし、『うるわしき日々』と『人間喜劇』はかなり趣の異なるお話ではある。