耐え難い<希望>

ブロッホは、世界との係わり合いの方法として、観照の代わりに、希望を提案する。
ブロッホは哲学を未来へ、<まだ・ない>ものへと向けることを提案した。
ブロッホの考えでは、未来に開かれた哲学は、世界を変えることに関わる意志を内包している。  
以上、『希望という方法』(宮崎広和)の第一章からの抜書き。

途中まで読んで棚上げしていた『希望という方法』を最後まで読み通す。ブロッホの哲学、フィジー諸島の先住民系フィジー人たちの希望のありよう、人類学という学問のありよう、という3つの論議を「希望」をキイワードに、結びあわせ、そうやって知の方法としての希望を浮かび上がらせようとする試み。

方法としての<希望>。
それは、知識を本質や目的といったものから引き離し、宙吊りにして、不確定な状態に置く。知識に向き合う人間もまた宙吊りにされる。不確定であること、宙吊りであること、わからないこと、それを受け容れること。そうして本質や目的に縛られて息が詰まった予定調和の出口なしの知識と世界のありようを揺さぶり、開いていく。でも、その先のことはわからない。

わからなさに身を委ねること。それが<希望>するということ。

この世界のわからなさ、見えなさの不安と恐怖に打ち勝つために人間は哲学して思想して宗教してきたのだとすれば、希望という方法は、いま一度、世界と向き合うためのゼロ地点に人間を立たせようとする試みでもあるのだろう。
<希望>という言葉の響きは明るいけれども、これは、実のところはとんでもなく恐ろしい知の方法でもあるのだろう、わからなさへの耐性をほとんど持たなくなっている人々にとっては。

人間は<希望>に耐えられるだろうか。人間は、今まで、どれだけ<希望>を遠ざけてきたことだろうか。
私はこの<希望>に寄り添いたいと思う。