書くこと、考えること。

ウィトゲンシュタイン曰く「思考するとは、シンボルを操作することだと言えるだろう」(哲学的文法?)、「「だが、記号操作は機械的に行なうこともできるではないか」―確かにそうだ。つまり、記号操作もまた、それが機械的でないと言いうるためには、特定の状況で行なわれねばならないのである」

野矢茂樹は言う。人は語ることによって思考する。しかし「語ること」と「思考すること」は同じではない。言語規則に従って語る(=なめらかな言語ゲームの遂行)、ゲームを機械的にではなく有意味に遂行することを思考とするならばウィトゲンシュタインは間違っている。
何がどう間違っているのか? 
記号操作(=言語ゲーム)が行なわれている「状況」。つまり、語りが行なわれている「状況」、この「状況」こそが思考を思考たらしめる。「状況」を「脈絡」と置き換えて、野矢はこう言う。「記号操作を思考たらしめる脈絡、それこそが解明されるべきものにほかならない」。

「考える」という名のもとに、実際われわれはきわめてさまざまなことをする。言い換えをする、帰結を引き出してみる、他のものと比較してみる、独り言を言ったり、人と話したり、文章化してみたりする、計算する、図表を書く、絵を描く、模型を作る。雑念を払おうとしてしかめ面をしたり、腕組みをしたり、歩きまわったりする。あるいはたんに待つ。そしてまた、それは内語、暗算、想像といった心的な活動であってもよいであろう。重要なのは、その活動を取り巻く思考の脈絡なのである。 「思考」とはなんらかの活動のパターンにつけられた名前ではない。そうした活動がしかるべき脈絡において獲得する意味、それが「思考」なのであり、それゆえわれわれはこう問わなければならばい。ある活動に「思考」という意味を与える脈絡とはどのようなものか。(野矢茂樹『他者の声 実在の声』所収「考える」ということ)

問いを立て直す。きちんと「思考」について、「思考」するためには、問いを立て直す必要がある。そういうことを野矢は言っている。
では、野矢が言うところの「思考の脈絡」とはどういうものか?

ある状況のなかで、その状況のなかのさまざまな事象について、ルーティンやマニュアルとは異なる、つまりは定形外の新たな連関性を探求すること、その探求の脈絡においてわれわれは「考える」。
言語ゲーム(語り)が滑らかに遂行されているときではなく、ゲームのよどみにぶつかったときにわれわれは「考える」。
おなじみの連関性が確保されているルーティンワークに「思考」はない。

思考とは、われわれがなめらかに連関性を生きているときではなく、立ち止まり、そうした連関性をまさに手探りで問うところにこそ、現れてくるものにほかならない。(『他者の声 実在の声』所収「考える」ということ)

長々と要約、引用してきたのは、私にとっての「書くこと」と重なるものを野矢の語りのなかに見出しているから。書くこと=思考することであり、思考するとは、つまり、所与の規則、枠組み、連関性の外へとはみ出しては、繰り返し、新たな連関性を見出していくことであるから。そして、新たな連関性の探求とは、何もないところに、何かを見ようとすることでもあるから(何しろさまざまな事象がばらばらと連関もなく散らばっているようにしか見えないところに、連関性を探り出そうとするのだから)、それをやるための準備、心構えを思うと、これはただならないことであると、正直、途方に暮れる。
とにかく全身をセンサーにして、見る、聴く、感じる。そのきりのなさにため息をもらしつつ、万巻の書にも手を伸ばそうとする。北京の蝶のはばたきに、ニューヨークの嵐を感じ取ろうと、いまここのささいなことの向こうに広がる意味の世界、今はまだ気づかれていない、人間が生きるために大切な「連関」を、探り出して、書きつけようと、容易には叶わぬ欲望に身もだえする。

書く。それは他者の言葉、他者を語る言葉を探求しつづけることでもあるのだろう。



「語りきれぬものは、語り続けねばならない」(「他者を語る言葉」野矢茂樹)。